長滝 祥司

長滝 祥司

ウズベキスタンに残されたガンダーラ仏。

(写真:佐藤秀明

テクノロジー・欲望・苦痛――自然の運を制御することのむこう側

人間は弱く傷つきやすい存在である。いっぽうで、おのれの欲望を無際限に拡大する能力を秘めている。テクノロジーは、人間の弱さや傷つきやすさから来る苦痛を取り除き、寝ている欲望を起こしつつある。この欲望は、自分と他人を区別し比較する能力に根を張っており、テクノロジーのあらたな進歩の原動力となる。

Updated by Shoji Nagataki on February, 13, 2023, 5:00 am JST

テクノロジーにお金をかける

テクノロジー礼賛は、F・ベーコン以来の古い歴史をもつ。ベーコンは、有用であることこそ、学問(サイエンス)に求められるべき成果と信じていた。日本のように化石燃料や広大な土地といった資源をもたない国では、技術立国こそが生き残りの道である、と声高に言われたりもする。そこで、役に立つテクノロジーを開発する人材も求められるわけである。

こんなニュースが目についた。「文部科学省は、デジタルや脱炭素など成長分野の人材を育成する理工農系の学部を増やすため、私立大と公立大を対象に約250学部の新設や理系への学部転換を支援する方針を固めた。今年度創設した3000億円の基金を活用し、今後10年かけ、文系学部の多い私大を理系に学部再編するよう促す構想だ」(読売新聞オンライン[2023/01/12 07:15])。

そもそも、お金のかかる理系大学は経営に配慮せざるを得ない私学から敬遠されがちだったのであり、戦後長い間、教育に人材やお金をかけてこなかった政策の失敗にすぎない――実は、理系人材よりも、すぐれたビジョンとまっとうな倫理観をもって政治のできる人材育成こそが急務であるのに、〈彼ら〉の思考の埒外にあるようだ。しかし、3,000億円とはしみったれている。焼け石に水であろう。市場調査をすれば、理系大学への需要に対してすでに供給過剰に近い状態であることがわかる。日本では、大学進学者のうち理学と工学を専攻する学生がOECDの平均27%よりもだいぶ低く、17%にとどまっている(読売新聞オンライン、同上)。理系学部をたくさん新設しても、受験生がそこに進学したくなるわけではない。需要と供給のミスマッチをどう補正するかが問題であるし、人材育成のためには不可欠である。 

寝ている欲望を起こす

やや迂回してしまったが、テクノロジーのいっそうの進歩は、ひとびとにとっても日本にとっても大いなる希望に違いない、と信じる者もいる。では、その希望を実現するためには何が必要なのか。言うまでもなく、理系的な頭脳やセンスをもつ人材であろう。そうした人材は、遺伝的資質の面からも育成環境の面からも、高学歴の夫婦のもとに生まれ、育てられる可能性が高い。1980年代に、当時のシンガポールの首相、リー・クアン・ユーは、高学歴女性がそうでない女性に比べ出生率が低いことに触れ、前者の出生率を高める政策をする必要を訴えた。その背景には、子どもの知的能力が母親からの遺伝によるといった見解がある。つまり、首相は未来における人材の枯渇を危惧したわけである。シンガポールにとって高度な人材の減少は、日本以上に、国の存亡に関わるものであった。高学歴の女性にたいして結婚や出産を奨励する数々の政策が提案され、同時に、高校も卒業していない女性には、不妊手術を受けるという条件つきで、アパートに入居するための補助が提示された。これは、明示的な強制のない点は異なるが、優生政策の一種だと考えていい――もっとも、貧困にあえぐ女性にとって、このような状況で断種を選択することは、強制に近い(M・J・サンデル)。

アメリカのグランドティトン山麓。映画『シェーン』のロケ地でもある。

ユー首相のとった政策から40年がすぎ、現代では、人材不足にたいしてもっと過激な処方箋の可能性も出てきた。受精卵の段階で、子どもの能力をプログラムすることである。生殖医療のテクノロジーがうまく進歩すれば、生まれてくる子どもの「ケイパビリティ(生き方の選択肢)」(A・セン)を、親の理想のままに自由に増やすことが可能になる。これまで人間は、理想の子どもに仕上げるために、環境を整え育て方に配慮してきた。それは、とくに先進国において、多大な経済コストと労力を伴うことがある。テクノロジーのおかげで、そうしたコストを無理のない適切なレベルに落ち着かせることができるかもしれない。かつての優生学は、劣等と見なされた人種やひとびとに断種を迫る反自由主義的なものであった。これにたいして、新しいテクノロジーを背景として出てきた考えは、「リベラル優生学」と呼ばれている。遺伝子の人為的介入は、親の能力や学歴に関係なく、「理想の子ども」、「望ましい子ども」をもたらしてくれる。自然の運、「構成的な運」※1 を制御できる可能性が開かれるかもしれない。構成的な運とは、性向や資質、気性にかんするものである。たとえば、自然に備わった身体的特徴や知性や性格などである。構成的な運を制御できれば、神にすがるしかなかった希望が、充足可能な「欲望」へと変化する瞬間がやってくるのだ。

リベラル優生学はだれを自由にするのか

親の愛には「受容の愛」と「変容の愛」の二つの側面がある(サンデル)。前者は子どものありのままを受け入れいわば静観する愛であり、後者は子どもの「善き生」のために積極的に関与することである。親の愛はいつも、この二つのあいだを揺れ動きつつバランスをとろうとする。バランスが崩れれば、ネグレクトや過干渉になる。

遺伝子操作のテクノロジーを背景としたリベラル優生学は、究極の過干渉だという解釈もあろう。リベラル優生学への批判はさまざまである。以下に列挙してみる(J・ハーバーマスL・R・カス、サンデルも参照)。

①遺伝子操作は神の領域に足を踏み入れることである。
②遺伝子操作を人間の胚に対して行うことは、他の動植物と扱いがおなじになり、人間の尊厳の冒涜である。
③親の選好による子どもへの遺伝子操作は、両者のあいだに不可逆的な独特のパターナリズムの関係を生み出してしまう。
④遺伝子操作をプログラムされた子どもは、親の意図を解釈できるが、修正したり、それがなかったことにすることはできない。つまり、子どもの自律性を損なうことになる。
⑤遺伝子操作によって、商品を選択するように子どもの能力を選ぶことができてしまう(市場取引の可能性)。結果、裕福な者にとってより有利な社会が招来される。
⑥遺伝子操作を実用化することで後世に多大な影響を及ぼしかねない、つまり安全性に懸念がある。

これらの批判にたいして、リベラル優生学の立場から応答を試みてみよう――本稿の著者の立場というわけではない。①は、宗教にコミットしないひとびとにはあまり響かないであろう。最近では、自然の権利といったことまで議論されるようになってきており、人間を特別視する②のような考え方が、無条件に受け入れられるとは限らない。③と④についてであるが、遺伝子操作と養育の環境とを比較すれば、親の選好は前者により強く反映されるといった主張も多い。だが、発達心理学を始めとするさまざまな分野で血か育ちか論争に決着がつくとは思えない状況からも分かるように、その主張が必ずしも正しいとは言えない。仮に親の好みの性向や能力を装備して生まれてきたとしても、一定の年齢を過ぎればそれらは自分のものとならざるを得ない。また当該の子がなんらかの事情(たとえば両親が死んでしまうなど)で別の親に育てられたなら、操作を施した親の好みからは逸脱するような人間になる可能性も大いにある――身体的特徴の一部ですら、環境によって変化しうる。

逆に遺伝子操作がなくとも、受容の愛にあふれすぎた両親のもとで長年過ごせば、自分の望みなのか両親のものなのか、判別がつきにくくなるであろう。社会も文化も、あるいは獲得する言語も、われわれのだれもが強い影響を受ける。親の愛もそのひとつである。つまり、遺伝子を操作されて生まれてこようと、親の選好を強烈に反映した環境で育てられようと、親の意図を修正することも可能であるし、子どもの自律性が損なわれることもある。⑤の批判は②と地続きである。人間の身体は動物のそれと違うのであり、後者が自由に売買されても、前者はそうであってはならないといったものである。だが、自由主義にもとづく市場経済の社会であれば、ありとあらゆるものは原理上商品となり得てしまうのであり、その選別をすることはむずかしい。生まれてくる自分の赤ん坊に、どんな能力を付与するかを自由に選択できる。そうしたテクノロジーが自由市場で取引されることに、どのような問題があるかは精査せねばわからない。②のような批判と重なるものであれば、決定的なものとはなり得ないだろう。裕福な者の特権性を高めるといった批判にたいしては、過去の医療技術の進歩に鑑みれば、それは一時的なものになると応えることができる。⑥も技術的な問題であり、遺伝子操作が本質的に悪であることの理由にはならない。

野良猫
道端で出会った野良猫たち。

遺伝子操作にせよ身体への物理的変更にせよ、テクノロジーの進歩によって構成的運を制御しようとする欲望が解放されていくだろう。この運に恵まれなかったひとびとにとって、欲望はより強いものとなる。不遇の人生を過ごしてきたひとは、自分の子どもにはよりよい人生を過ごして欲しいと考える――もちろんいまの日本では、子どもをもてるだけでじゅうぶん幸運であるといった意見もあろうが。そうした欲望をもつ者に、遺伝子操作を施す自由と教育環境を整える自由があるとして、それら二つに違いはあるのだろうか。リベラル優生学を是認する論者たちは、やや控えめにこう言うかもしれない。構成的運を制御するテクノロジーがあれば、それを自由に利用することは、少なくとも、利用しないでいることに比べて悪いわけではない。なぜならそれによって、子どもの「ケイパビリティ」、人生における自由度も高まることになるからである。

苦痛、あるいはホモ・コンパランス

病や怪我による苦痛でさえ、神の賜りものである。医療技術が進歩するずっとまえには、ひとびとはこうした教えを信じていた。おそらく、すべての苦痛に賜りものという性質が付与されていたのだろう。言い方を変えれば、苦痛を受け入れることは神の愛の受容なのだ。ひとびとは神の名のもとに、耐えがたい苦痛を甘受していたのである。だとすれば、科学とテクノロジーの進歩は、神と苦痛を取り除く歴史だったと言っていい。

構成的運を制御することは、苦痛の除去の側面もある。たとえば、先天性の遺伝病に遺伝子操作を施したり、四肢に欠損をもって生まれてきた身体をサイボーグ化したり、といったことが挙げられる。では、親の望むような知性や身体的特徴、気質や性向を子どもに人工的に与えることで、何を除去しようとしているのだろうか。子どもは賜りものであり、それゆえあるがままに受け入れるべきである。だから、「設計の対象、意志の産物、野心のための道具」であってはならない(サンデル)。遺伝子操作による能力の増強は、「天賦の才の祝福」であるはずの人間の活動の一部を蝕んでしまう。才能に恵まれなかった自分も子どもも受容せよ、なぜなら賜りものだからである。特定の宗教へのコミットではないにせよ、テクノロジーを拒否する心性には、ある種の神学的ニュアンスが入り込んでくるのも事実である。

さきの問いを繰り返そう。生来の能力を人工的にコントロールすることで何が除去されるか。言うまでもなく苦痛である。では、どんな苦痛なのか。それは、天賦の才や幸運に恵まれなかったことからくる苦痛である。自分の人生が退屈でつまらないものに思えたり、暮らし向きが良くなかったり、思うように希望が叶えられなかったりといったことに伴う苦痛である。この苦痛は、かつてないほどに増大している。ひとつには、平等主義者たちの意図に反して、格差が拡大したからであろう。そしてもうひとつには、他人と自分を否応なしに比べる機会が増えてしまったからである。たとえば日本では、上位1%の富裕層の9割が富を失った戦後から一億総中流と言われた時代には、――隣に芝生は青いといったことばで表現されるように――、近所のひとびとと自分の暮らし向きを比べる程度であった。ところが、20世紀終盤の情報化の進展から21世紀におけるSNSの浸透によって、「隣」は世界中の不特定な、しかしかなり具体性をもった他者へと無際限に広がってしまった。「自分はたいした生活をしていないことにコンプレックスがあり、インスタで見るキラキラした女性に嫉妬した」(ANNニュース[2023/01/18 16:05])。これは、女性たちになりすましてSNSのアカウントを乗っ取った28歳の男のことばである。 

快と不快、敵と味方、食べられるものと食べられないもの、交配相手とそうでないものなど、生物が活動するうえでもっとも重要な能力は、ものごとを比べそこに違いを見いだすことである。生物のなかでも人間は、比較することにおいてある意味で際立っている。なぜなら、自分を比較の対象へと巻き込んでしまったからである。他人と自分を比べ、そこに類似や差異を見いだし、追従と離反を繰り返す。こうした本質的性向に即して人間を名づけるとすれば、それは比べる存在、「ホモ・コンパランス(homo comparans)」である。比較する力は苦痛を増大させ、テクノロジーの進歩を後押しする欲望の原動力となった。

比べることは、道具を使い(homo utens)、ことばを話す(homo loquens)ことと密接に結びついている。これら三つの性向から人間を捉え直すことで、テクノロジーの新たな側面が見えてくる可能性があるが、稿を改めたい。

※1 https://www.moderntimes.tv/articles/20221121-01luckを参照されたい。

参照リンク
不平等の再検討――潜在能力と自由』アマルティア・セン 池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳(岩波書店 2018年)
人間の将来とバイオエシックス』ユルゲン・ハーバーマス 三島憲一訳(法政大学出版局 2012年)
生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』レオン・R ・カス 堤理華訳(日本教文社 2005年)
完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』マイケル・J・サンデル 林芳紀・伊吹友秀訳(ナカニシヤ出版 2010年)
平等とは何か』ロナルド・ドゥウォーキン 小林公・大江洋・高橋秀治・高橋文彦訳(木鐸社 2002年)
暴力と不平等の人類史――戦争・革命・崩壊・疫病』ウォルター・シャイデル 鬼澤忍・塩原通緒訳(東洋経済新報社 2019年)