働く少女、千尋
宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」は正面から「労働」を扱った作品である。主人公は10歳の女の子・千尋。彼女は慣れ親しんだ友だちに別れを告げて、新しい街に引っ越して来た。ふくれっつらで親に口答えをし、怖がりで未知を遠ざけ、他人とまともに口もきけない、出来の悪い現代っ子の代表として登場する。ところが、彼女は不思議な世界に迷い込む。両親は豚に変えられてしまい、言葉も通じなくなる。彼女が悪戦苦闘し、両親たちと元いた世界に戻るのが、この作品のメインストーリーである。今回は物語の前半に焦点をあて、「労働」の視点からこの作品を考えてみたい。
不思議な世界では、働かないものは動物に変えられてしまう。逃げ惑って混乱する千尋を助けてくれたのは、謎の少年・ハクだった。彼は千尋に、生き延びたければ仕事を探して働かなければならないと告げる。恐ろしい魔女・湯婆婆と会って、職探しをしろと言うのだ。彼は、こうアドバイスをする。
イヤだとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど働きたいってだけ言うんだ。辛くても耐えて機会を待つんだよ。そうすれば湯婆婆も手が出せない。
こうして千尋の就職活動が始まった。最初にハクにもらったアドバイスをもとに「油屋」に向かう。そこは、八百万の神様たちが疲れを癒しにくる、湯屋(温泉宿)だった。
この物語では、主人公の冒険はさっぱりうまくいかない。臆病な千尋は、さっそく手すりのない階段を降りる羽目になり、危うく落っこちそうになる。よれよれと歩き、ハクに教えてもらった釜爺というおじいさんをなんとか見つける。それなのに気後れし て声をかけることすらできない。釜爺は手が何本もあって、あれもこれも仕事をしていて忙しそうだし、気難しそうなので、話しかけにくいのだ。必死の思いで「ここで働かせてください」と頼んでみるが、すげなく断られる。邪魔扱いされ、意気消沈して隅のほうで膝を抱えて座り込んでしまった。千尋には、自分を売り込んで仕事を掴み取るようなバイタリティがない。
千尋がぼんやり眺めていると、釜爺の周りでは小さなススワタリがざわざわと働き、石炭をボイラーに運ぶ仕事をしていることに気づく。軽い気持ちでそれを助けてやろうとすると、ススワタリたちは仕事を彼女に押し付けてサボろうとし始める。それを見た釜爺は怒鳴り散らす。
こらあ! チビども、ただのススにもどりてえのか? あんたも気まぐれに手え出して人の仕事をとっちゃならねえ。働かなきゃな こいつらの魔法は消えちまうんだ。ここにあんたの仕事はねえ ほかを当たってくれ。[ススワタリに対して]なんだお前たち! 文句があるのか? 仕事しろ、仕事!
表面を取り繕うような優しさや親切は、職場では役に立たないのだ。千尋は意気消沈する。
そこに、油屋の女中のリンが、昼ごはんの配膳のために登場する。彼女は溌剌とした女性で釜爺にもひるまない。威勢よくどやす姿は頼もしい。釜爺もたじたじだ。
そうこうするうちに、釜爺はリンに対して、千尋の職探しを手伝うよう頼む。自分のところは人手が足りているから、湯婆婆のところに連れて行ってやってくれというのだ。そのために、とっておきの珍味「イモリの黒焼き」もリンに渡してやる。そのおかげ で、千尋はリンに就職活動を手伝ってもらえることになった。それなのに、ここでも千尋は叱られっぱなしだ。
そこの子 ついてきな。あんたねえ 「ハイ」とか「お世話になります」とか、言えないの? どんくさいねえ、早くおいで! 靴なんかもってどうすんのさ! 靴下も! あんた、釜爺にお礼言ったの? 世話になったんだろ?
矢継ぎ早に言われて、千尋はよれよれとリンのあとをついていき、「あ、はい」と小さい声で返事をするので精一杯だ。慌てて釜爺にお礼を言おうとすると頭をぶつけてしまった。そんな様子をみて、釜爺は「グッドラック!」と親指を立ててくれた。
リンの先導で、千尋はなんとか湯婆婆の部屋にたどり着く。そこで、ハクに言われた通り「ここで働かせてください」と繰り返した。湯婆婆は嫌がらせのように言う。
なんで私がお前を雇わなきゃならないんだい? 見るからにグズで甘ったれで泣き虫で頭の悪い小娘に仕事なんかあるもんかね。お断りだね! これ以上、穀つぶしを増やしてどうしろっていうんだい。それとも一番ツラーイ、キツーイ仕事を死ぬまでやらせてやろうか?
千尋は脅しに動じず、しつこく「働かせてください」と頼み込む。湯婆婆は仕方なく諦め、労 働契約の書類を出してくる。実は、彼女は「働きたい者には仕事をやる」という誓いを立てているため、断れないのだ。その代わりに、湯婆婆は千尋の名前を奪い、「千」と名乗らせる。
ほかの従業員は人間の千尋を歓迎せず、あからさまに嫌がるが、リンが引き受けてくれることになった。やっとのことで、千尋は就職に成功し、リンは心から喜んでいる。彼女は冷たいように見えたが、実は心配していてくれたのだ。他方、ハクにも再会するが、ここでは彼は別人のように冷たかった。千尋は女中部屋の布団で休むことになったが、疲労困憊して足もふらふらするし、気持ちが悪くなってしまう。
翌朝、早い時間にハクがこっそり千尋を誘い、油屋の外に連れ出す。彼は湯婆婆の監視を避けるために、わざと冷たい態度をとっていたのだ。ふたりきりになると、手作りのおにぎりをくれた。それを食べると、千尋の目から涙がぽろぽろとこぼれてくる。ずっと新しい環境で緊張して、我慢していた気持ちが溢れてしまったのだ。わんわん泣いた後、ハクに「一人で戻れるね?」と問われると「うん ハクありがとう。私、頑張るね」としっかりとした顔つきで答える。そこから、彼女は一生懸命に油屋で働き始める。
千尋は要領が悪く、リンにも「どんくさい」と呆れられてしまう。番台にも馬鹿にされ、温泉を入れるための薬札ももらえない。職場で劣等生なのだ。彼女の評価が一変するのは、厄介な客・オクサレ様が登場してからだ。どろどろに体が溶けて、臭気を放ち、触ったものを腐らせてしまうような、油屋にとっては困った神様だ。従業員はなんとかお引き取り願おうとする が、オクサレ様は中に入って来てしまう。仕方なしに、湯婆婆は千尋に接客を担当させることにした。汚物まみれになりながら、千尋は懸命に接客するうちに、オクサレ様の体にはトゲのようなものが刺さっていることに気づく。それを知った湯婆婆は、従業員全員に声をかけて、そのトゲにロープを巻き付けて抜こうとする。湯婆婆が「湯屋一同、心を合わせて」と叫び、従業員はもちろん、客の神様たちも「そーれ、そーれ」と掛け声を揃える。みんなの協力のもと、棘が抜けると、中から川の神様が現れ、砂金をばら撒いて去っていった。金を手に入れた湯婆婆は一転して、「千、よくやったね、大儲けだよ。ありゃ名のある川の主だ。みんな、千を見習いな」と褒めちぎる。
「千と千尋の神隠し」、油屋の本当のモデル
ここまでが物語の前半だ。宮崎は油屋のモデルはスタジオジブリだと明言している(宮崎駿『風の帰る場所』文春ジブリ文庫、2013年)。油屋の従業員たちは、男はカエル、女はナメクジが変身した姿だ。それについて、宮崎はこう述べる。
例えばスタジオジブリで十歳の少女が働かなければならなくなったとします。それは親切な人もいじわるな人も含めて、カエルの大群の中に入ったようなものです。これはそういう映画なんです。(宮崎駿『折り返し点』岩波書店、2008年、263頁)
宮崎によれば、ジブリには新人に対して、いろんな関わり方をするスタッフがいる。みんながフレンドリーで親切なわけではない。でも、ちょっととんちんかんで要領が悪くても、本気で頑張っていれば、誰かが助けてくれる。それが、宮崎の考える良い職場なのだ。もちろん、千尋は10歳であり、日本では就労可能年齢に達していない。それにもかかわらず「少女が働くこと」を作品のモチーフにしたきっかけを、宮崎はこう語る。
ペルーの少年労働を扱ったNHKのドキュメンタリー番組を見たことがあって、その時に思ったんです。今、地球に生きてるすべての子供たちのために映画を作るとしたら、どんな生活を送っている子供たちが見ても納得できる映画を作りたいって。日本の子供にだけわかればいいというものを、作るわけにはいかないとね。それに子供が働かなくてもいい時代というのは、実はほんのわずかで、僕の祖父なんかは八歳で丁稚奉公に行きましたから字も読めなかったんです。そういうことがついこの間までこの国でもあったんです。それがたまたま戦後の高度成長によって子供が働かなくてもいい時代を持てた。子供が働くのが当たり前なのがこの世界の現状なんです。それが良いか悪いかではなく、そのことを忘れたくなかったんです。実際、人間は社会的生き物ですから、基本的に社会と関わりを持たずに生きてはいけませんからね。働かざるを得ないんです。(同書、263-264頁)
労働は楽しいものではない。もちろん、劣悪な労働環境や、人間関係のトラブル、非正規雇用の常態化など、深刻な労働問題はたくさんある。しかし、そこそこ条件の整った環境の良い職場であったとしても、毎日いつも楽しく働ける、という人は稀だろう。宮崎は、労働を美化しているというよりは、避けられない社会活動であると位置付けている。そのとき、労働のイメージは理想化された共同体の協働作業ではない。たとえば、宮崎は「千と千尋の神隠し」のイメージアルバムのために、「油屋」という労働歌を書き下ろしている。歌詞はこうだ。
さっき寝たと思ったらもう仕事だ/終わったと思ったら/もうはじまりだ/身体は重いぜ/気持ちはもっと重いぜ/仕事があるうちが華なんだって/お前さん/婆ちゃんが言ったよ/さっきまで娘だった婆ちゃんが/きれいなのは若いうちだけだよって/爺ちゃんが言ったよ/さっきまで若かった爺ちゃんが/残るのは人生だけさ/重くてだるい人生だけだってさ
この労働歌では、労働現場での仲間との連帯は全く出てこない。あるのは、繰り返される毎日の労働の繰り返しである。人は働いて死んでいく、というイメージは美化されていない。
労働者をこき使おうとする自分と、よき市民でありたいという自分がいる
そうでありながらも、宮崎は労働の価値を肯定し、自分自身も働き者だと認めている。
僕自身は働くことはいとわないですよ。好きですしね。自分の煩悩のせいで、もう少しまともな映画にしたいとか欲を出すから、最後はいつもひどいことになっちゃう。スタッフのみんなが八時間労働で帰れるような絵コンテきって、お客がいっぱい入るような映画を作れたらこんなにいいことはないんだけど、そんな能力はないから、みんな搾りかすみたいになりながら、映画を作ってる。だからといって、労働が神聖なものだとは思いませんけどね。(宮崎、前掲書、2008年、264頁)
ここで、宮崎は一労働者としての苦しみというよりは、それを指揮する側の葛藤を語っている。すなわち、上役の仕事のマネジメントの問題である。では、この映画の中では、宮崎はどのキャラクターに当てはまるのだろうか。宮崎自身は、湯婆婆はジブリのプロデューサー・鈴木敏夫である(宮崎、前掲書、2013年)とする一方で、湯婆婆は自分の一部でもあるとしている(宮崎、前掲書、2008年)。この作品には、湯婆婆の姉・銭婆が登場する。湯婆婆は油屋を取り仕切る経営者で金の亡者になっている。他方、銭婆は道徳心を重んじ、人と人との関係を重視する愛情深い老女である。作品の中で、銭婆はさりげなく、湯婆婆について「私たち二人で一人前なのに、気が合わなくてね」とつぶやいている。二人の分裂について宮崎はこう語る。
僕らは仕事場では湯婆婆で、わめき散らして仕事をさせたりしていますが、家に帰ると善良な市民であろうとしていますからね。この分裂こそが、僕たちの切ないところだと思います。(同書、266頁)
つまり、ジブリは理想的なユートピアではない。湯婆婆のような宮崎が、労働している社員をこき使い、収益を上げることにしゃかりきになっている。そのせいで、労働者は疲れ果てるまで働き続け、「油屋」の歌にあるように「重くてだるい人生だけだってさ」とぼやくような日々を暮らしている。それが、映画の中で宮崎が描き出したジブリの職場だ。
宮崎は、労働を通した共同体の理念を捨て切っていない
宮崎は、労働の苦しみや経営者の傲慢さや暴力性も知りながら、その職場をディストピアとも描いていない。彼は、千尋が油屋で働き始めてすぐに、元の世界に戻ることで離れてしまったことを残念がってもいる。
この物語は何か思いのほか切ない話です。特に終わり方が。そう思いませんか? せっかく自分を認めてくれた人たちと出会えたのに、千尋はその場所を離れなくてはならないわけですから。もう少しいれば、カエル男たちやナメクジ女たちとももっと知り合うことができて、良い人やくだらない人間も含めて、いろんな人がいることに気がつくはずなのに、それを全部捨てなきゃいけない。切ないですよ。作ってるこっちだって切ないんですから。(同書、268頁)
ここに、宮崎のアンビバレンツがある。労働は楽しいことばかりではなく、つらくしんどい日々の反復である。それなのに、一緒に働いているうちに職場の同僚の人となりが見えてくる。そのときに人間は、本当の意味で、労働の中で人と繋がりながら生きていくことができるのだ。それは「連帯」と呼べるものだろう。この宮崎が繰り返す「切ない」という感情は、やはり観念のレベルでの「連帯」への思慕だろう。彼はもう高らかに社会主義を謳うこともなければ、労働組合での連帯について語ることもない。それで も、労働を通した共同体の理念は捨て切ってはいない。
宮崎駿は、釜爺では?
ところで、アニメーション監督の庵野秀明が、この作品について面白いことを言っている。宮崎の分身のようなキャラクターは、湯婆婆でも銭婆でもなく、釜爺だと言うのだ。
釜爺は、宮さん本当にあれくらい手が欲しいんだろうなあという願望のキャラですね。こっちでレイアウトの修正をやりながら、こっちで絵コンテ描いて、原画をやって、動画をやって……と、実際そのくらい働いてるんで、更に手が欲しいんでしょうね。あのススワタリ=ジブリのスタッフは大変だなあと思いました(笑)。(庵野秀明「そして電車は行く」『ユリイカ』2001年8月臨時増刊号、125頁)
作品の中で釜爺は実は湯屋の人間関係から、少し離れたところにいる。ボイラー室で、ススワタリを引き連れて、別働隊として働いているのだ。つまり、千尋やリンたちの、接客業を担う従業員の共同体には属していない。彼は一人であくせくと、湯を沸かして風呂釜に配分しているのである。つまり、メインの従業員たちの連 帯の外側にいる。そうでありながら、無骨だけれど優しい、千尋たちと情で繋がるおじいさんだ。千尋やハクを見守り、なんだかんだと世話を焼いてくれる。庵野はこんなふうに釜爺のキャラクターを描く。
陰で一〇歳の女の子を助けて見守って、男の子との恋愛まで首を突っ込みもする(笑)。言ってしまえば、千尋の両親はダメ夫婦なわけじゃないですか。(略)あのまま千尋が大人になったら、グレてしまうかも知れないところを、自分が正しい道に導いてやるみたいな役回りです。あんな夫婦にまかしちゃおれん、俺がやってやるというのが表に出ていた(笑)。それが釜爺だと思うんですけど、良かったですね。(同書、124-125頁)
庵野の指摘通り、釜爺こそが宮崎の分身なのかもしれない。社会主義の理念と、釜爺はまったく関係なく生きている。「愛だよ、愛」と熱弁をふるい、個人の感情にばかり興味を持つ。そうかと思えば、労働者の共同体からこぼれ落ちそうになる、千尋やハクのような若者を捨ておけず、面倒を見てしまう。ちょっと保守的で頑固だけれど、憎めないし、優しさも感じる。そういうおじいさんがいるから、千尋もハクもなんとかやっていけるのだ。共同体からはちょっと外れたところで、個人として生きてきた、心優しき労働者。これが、宮崎の理想を投影した自己像だというのは興味深い。
理想的な労働者が持つ二つの顔
宮崎は、湯婆婆と銭婆は表裏一体で、一人の人間が持つ二つの顔だと言う。だとすれば、リンと釜爺も二人で一つの、「理想の労働者」像かもしれない。一方で、共同体に所属し、ともに働く中で人と 繋がっていく理想的労働者の像がある。他方で、個人として他人に働きかけ、共同体に入れなくても情で繋がっていく理想的労働者の像がある。これは労働において、「集団で生きていきたい」と「個人として生きていきたい」という二つの自分を、それぞれの人が持っているさまを描き出しているようでもある。こうして、宮崎は引き裂かれた二つの労働についての価値を、作品の中で錯綜させていく。
宮崎の作品は、労働を称揚するのでも、毀損するのでもない。人々が働いて生きていかなければならないとすればどんな道があるのかを、湯屋という職場を描くことで示している。楽しいだけではないが、人と繋がり、毎日を生きていくために働く場。最高でもなく、最低でもない職場。ここには、観念としてではなく、彼が労働者・経営者としての経験の中から再構築してきた労働観が、物語の形を通して浮き彫りにされている。若き日に労働組合の連帯に理想を見出した宮崎が辿り着き、渾身の力を込めて製作した作品を通して表現している職場とは、ありふれたディーセント・ワークの理念に支えられている。だからこそ、批判するのは簡単だ。彼の作品は労働についてのラディカルな現代社会批判にはならない。他方、この凡庸に見える理念の実現がどれほど難しいかを、宮崎はスタジオジブリの運営を通して知っているからこそ、湯屋のような職場を描いたのではないか。労働は美しくもなく、暗黒でもない。これが、この作品で浮き彫りになる宮崎の労働観である。
参考文献
『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』宮崎駿(文藝春秋 2013年)
『折り返し点』宮崎駿(岩波書店 2008年)
『ユリイカ』2001年8月臨時増刊号 「そして電車は行く」庵野秀明(青土社 2001年)