瀬谷ルミ子

瀬谷ルミ子

銃を降ろさせるための仕事、相互理解のための共同作業。
武装解除のプロに聞く、平和の取り戻し方

世界を舞台に「武装解除」を職業とする人がいる。深い断絶やどうしようもない憎しみが生まれてしまった社会で、武装解除のプロはどのような仕事をしているのか。DXにより社会が新しい方向へ動き出すとき、生じるコンフリクトを解消するために必要なことはなにか。かつて武装解除の専門家として活動し、現在は争い予防に取り組む、認定NPO法人REALs(リアルズ)(Reach Alternatives(リーチオルタナティブズ)理事長の瀬谷ルミ子氏に話を聞いた。

Updated by Seya Rumiko on November, 22, 2022, 5:00 am JST

手探りで始まった武装解除への道

――瀬谷さんは元々は「武装解除(DDR)」を専門にしていらっしゃいましたが、そもそも武装解除のスキルというのはどのように身につけていったのですか? 選んだ道はなぜ武装解除だったのでしょう。

瀬谷 高校生のころに世界で起きている紛争問題に関心を持つようになり、紛争解決や平和の構築のためには、何か専門的なスキルを身に着けなくてはならないと感じました。いろいろ調べた結果、紛争の現場において、当時は元兵士をどう社会に戻すかという課題は、専門家が世界的にも少ないけれどもニーズが高かった分野の一つだと分かりました。

当時、武装解除を体系的に学べる大学はありませんでした。もちろん、それを学べる書籍もなかった。紛争の現場は行ってみないと何が起きているのかもわからない。23歳の時にルワンダのNGOで働いていたところから、西アフリカのシエラレオネというところに2、3週間ぐらい自費で行ったんです。そこがまさに武装解除が行われようとしている現場だったので。

まずは武装解除がどのように行われるのか、自分の目で見て、人々と話してみることにしました。とくに子どもの兵士たちへの対応を調査したんです。4ページぐらいの短いレポートをまとめ、日本に戻ってからアフリカ関係の学術誌に投稿し掲載してもらいました。すると、その記事を見た当時のREALsに勤務していた人が、国連PKOで働く若手を探していると連絡をくれて。当時はまだ武装解除を専門にしている人がいない状況で、私の記事をきっかけに声がかかりました。そこから、武装解除の経験を積み、自分の仕事になっていったという感じです。24、25歳のときでした。

――瀬谷さんたちの活動の蓄積があって、武装解除の知識やスキルは体系立っていったのですか?

瀬谷 もちろん私1人でそれを作ったわけではなく、シエラレオネやモザンビークや南米などでの様々な機関・団体の取り組みで機能したものが持ち寄られました。そうやって効果的な武装解除、いわゆるDDR(Disarmament Demobilization  Reintegration)が国際機関などで議論されるようになりました。

特に私が関わっていたシエラレオネのDDRは成功例と呼ばれるような成果を上げたので、よく参考にされました。内戦中のシエラレオネは、世界的に見ても反政府勢力の残虐ぶりが目に余る被害を生んでおり、加害者と被害者間の憎しみや社会の分断も深刻でした。ですが武装解除が実施され、元兵士たちが一般市民と生活するようになったんです。内戦も再発していません。私にとってもシエラレオネの武装解除は、その後さらにいろんなところで武装解除をやる基礎になるような経験でした。

平和な社会ではどのように生きていったらいいかわからない元兵士たち

――シエラレオネの武装解除が成功したポイントはどこにあったのですか?

瀬谷 武装解除は単独で平和をもたらすものではなく、あくまで和平プロセスの一部です。そういう意味では、シエラレオネでは20年以上内戦を続けている状態だったので、反政府勢力側も疲弊し「もう戦争は終わらせたい」という和平の機運が高まっていたこと。あと国際社会や国連、かつての宗主国イギリスなどの主要国が和平プロセスの推進や武装解除された後に治安を守るための新たな国軍を作ろうとしていたことなどがポイントになったといえます。

社会の修復がどのように進められるかも重要です。戦争犯罪を担った加害者とされる元戦闘員たちを法的に裁くとなると、そもそも和平に応じない可能性が高いので、多くの和平プロセスでは元戦闘員が武装解除に応じるのと引き換えに恩赦を与え、罪を問わないことにします。被害者や遺族からすると、理不尽でしかないのですが、多くの被害者は再び戦闘員たちが武器を取り戦争が再発しないよう、泣く泣く受け入れざるを得ないこともあります。「平和」と「正義」のどちらかを優先すればもう一方が手に入らなくなることもあるなか、社会がどのバランスで和平を進めるのかが問われます。シエラレオネも、一部の司令官を除いて元戦闘員は恩赦を与えられましたが、多くの賛否両論あるなか、平和をもたらすための決断をしていきました。

元兵士たちの社会復帰を如何に実行するかも大切です。武装解除された後に職業訓練を受けるのですが、それだけだと手に職はつけても、元の平和な社会でどう生きていったらいいのかわからない。特に子どものうちから武装勢力のなかで過ごしてきた人は、一般的な社会での振る舞いや、気に入らないことがあっても暴力を使ってはいけないことなどもわからないんです。自分の身の回りのことは自分でやらなければならないことすら、新たに学ばなくてはなりません。心に傷を負っているような人たちも多い。

シエラレオネの場合は、特に子ども兵士を中心に心理社会的なサポートをしたり、被害者の人たちと共存できていけるような取り組みを組み合わせていました。元兵士たちは自分たちが傷つけた被害者たちがいる社会へ戻っていくことになる。どうやって同じ社会で生きていくのか、自分たちがどう捉えられて、どう行動すべきかを、NGOや政府、国連がプログラムでサポートした点も大きかったと思います。

いきなり「対話」は無理がある。共に過ごす、共に手を動かすことで人が見える

――そのプログラムでは主に対話が行われるということですか?

瀬谷 私が関わった事業では、その地域で必要とされるコミュニティセンター、橋、道路などのニーズがあったら、元兵士とその地域のコミュニティの人たちを半分ずつ労働力として雇って、共に建設作業をしてもらうことにしました。戦争で壊されたものを立て直す事業です。そこでは昼食が出るのですが、その食事はコミュニティの住民に用意してもらいます。建設費は国際社会や国連といったプログラムの方で負担しますが、地元で調達できる石など道具や材料の調達や食事の調理は周辺住民が行う。そうすることで、自分たちの地域の開発に元兵士が参加しながら、同じ時間を過ごすという仕組みを取り入れたんです。

少しずつ接したり話したりしているうちに、住民たちに元兵士たちがどんな思いで社会復帰をしようとしているのかが見えてくる。元兵士の中には無理やり兵士とさせられてしまったような人たちもいるので、そこで「相手も1人の人間なんだな」と少しでも思ってもらえる雰囲気を作っていきました。

無理に対話をさせようとすると、綺麗事しか言わなかったり、何も言わなかったり。準備ができてない人からすると、語ることがまだない状態なんですね。裁きもまだなのに話し合えだなんて、と思われてしまうこともある。けれど自分たちのコミュニティの開発復興のための作業だったら、少なくともそれ自体に参加することのメリットはある。

ラオスの古都ルアンプラバンの朝
ラオスの古都ルアンパバーンの朝。薄明に山がぼんやりと浮かび上がる。

さらに進むと、平和のためのアクティビティとかイベントとかスポーツイベントとか、アートイベントとかをコミュニティ共同で企画してもらったりすることもあります。一緒に作業することで少しずつ人間性が見えてくる。

――接する機会が増えてこないと、お互いを個人としてみることは難しいんですね。

被害者にしてみたら、元兵士はイコール元反政府勢力の憎むべき存在。とはいえ、やはり一人ひとり事情がある。兵士でなくこれからは一般市民として生きていきたいという思いを知ったり、悔い改める気持ちがあることを理解したりする機会があるだけでも、変化が起きるんです。同時に、元兵士側が被害者の「許せるわけがない」っていう気持ちを知ることもすごく大事です。シエラレオネの場合は、多くの兵士たちは恩赦を与えられましたが、内戦を主導したトップレベルの司令官たちが人道に対する罪で国際的な特別法廷にかけられ、一定の裁きを受けたことも意味がありました。

再び銃を取らないよう、お金を渡すこともある。それが多少、不平等であっても

――ご著書の中では武装解除させるために、武器を返還した元兵士に金銭を渡すという記述がありました。そうすると、返還する武器がある元兵士ばかりが優遇されていると思われてしまうと思うのですが、それによるコンフリクトはなかったのですか?

瀬谷 単純に、武装解除されるということは、元兵士たちはリストラされて仕事がなくなるということです。そのまま放り出されて生きていけるかといったら、それはできない。中には養わなければならない家族がいる兵士たちもいるので、その家族を養ったり自分が生き延びられたりするような、一時金や、食料、生活用品をまず提供して、それを使いながら職業訓練を受けて自分で仕事を見つけられるようになってもらうことが必要でした。

もちろんそれが「優遇」だと思われないようにするには、バランスを図ることがとても重要です。優遇しすぎていると思われないラインで、一時的な生活の支援をすることが大事です。

武装解除するときに重要なのは、「何のためにこの施策を行っているか」を、住民・市民全体にまずしっかりと伝えて理解してもらうことなんです。武装勢力をそのままにしておくこともできますが、そんなことをしたら、生活に困窮した元兵士がまた武器を手に取って反抗するかもしれない。すると内戦がまた続くことになり、被害が出続けることになります。それよりもある程度のところで折り合いをつけて、その人たちが再び武器を手に取らずにいられるようにする方が、社会の平和や、さらなる犠牲者を出さないことにつながるという未来に向けた解決策を共有できるかが鍵です。

DDRは明確なプロセスのなかで行われるんです。全体的な和平プロセスのなかで、武器回収をする期間も定めます。もちろん全体の和平プロセスが終わっても、元兵士の受け入れや共存のための取り組みは、引き続き必要に応じて続ければ良いのですが、いつまでも「元兵士」「元子ども兵士」と呼ぶことが問題になることもあります。それがその人の唯一のアイデンティティにならないよう、「一般市民」「個人としての自分」を併せて持つことが必要と思っています。

――職業は生活の糧を得るためものだけでなくて、アイデンティティのために必要なんですね。

瀬谷 生活の糧のためというのがやっぱり一番ではあるんですが、そういう役割もあります。別に元兵士とか元子ども兵だったって事を隠して生きろというわけではないのですが、武装解除やDDRってセンセーショナルな支援のプログラムだと思われがちなので、その支援を受けている人たちにそのことばかりを語らせるようなことがあってはいけないと思うんです。自分たちが自発的にその話をする分には全然いいのですが。

――あえてうかがいますが、元子ども兵への対応が特に重要な理由はなんですか。

紛争地では、大人でもその他の生き延びる選択肢がないことがあるのですが、子どもの場合は一層そうです。5、6歳で無理やり誘拐されて、「兵士にならなかったら殺すぞ」と言われて兵士にさせられてしまうことがあるんですね。どうやっても、それ以外に選択肢がなかった。それで善悪の判断や道徳感がちゃんと育たないままに成長していく子もいる。そのうちに、武装勢力の中でしか生きることができなくなります。同時に、貴重な子ども時代も失われます。普通に受けるはずだった教育も受けられないし、子どもらしく過ごすこともできない。なので、心に受ける傷が大人に比べて深刻になりがちです。

だから元子ども兵には、より一層善悪や道徳感を学べるようにすること、新しい平和な社会の中で普通の人間として過ごすというのがどういうことなのかをちゃんと伝えなければならないんです。それを実践することはすごく難しいです。時間もかかる。だからその分、ケアとしても手厚いものが必要なんです。

――段階に応じて、状況に応じた対応が必要なのですね。一面から見るとそれが不平等に感じられたとしても、大きな目標を達成するためには重要であると。ありがとうございました。


認定NPO法人REALsウェブサイト:https://reals.org/index.html
REALsへの寄付:https://reals.org/support/donation.html