松村秀一

松村秀一

インド・ジャイプールの水上宮殿ジャルマハル。湖に佇む建築物だ。

(写真:佐藤秀明

分断と量産の時代を超えて、ものづくりは新たな局面を迎えようとしている

大量生産の時代には、生産工程の分業化が進んだ。それは建築という大掛かりなものにまで広がっている。極端な分業化は職人たちからつくることの喜びを奪ったように見えたが、どうも現代は情報技術の進展が新たな局面をもたらしているようである。東京大学・特任教授の松村秀一氏の言葉を紹介しよう。

Updated by Shuichi Matsumura on November, 8, 2022, 5:00 am JST

めったにいない「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」

建築界と縁のない方にはわからなくて当然だと思うが、ちょっとお聞きしてみたい。大学の建築学科を卒業した人はどんな仕事に就くでしょうかと。

先ず「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」という答えが頭に浮かぶ人が多いと思う。でも、あなたの知り合いに「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」はいますかと問えば、そんなに多くの人が頭に浮かぶケースは少ないだろうし、全く思い浮かばないという人も少なくないと思う。日本には、建築学科或いは名称は違うもののそれに当たる学科を持つ大学が100校はある。そして、その卒業生の総計は年間に14,000人とも15,000人とも言われている。だから、皆さんの知り合いに殆どいないような職にしか就いていないということはあり得ない。「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」になっている人もいるだろうが、世間からそういうふうに認知される人は、卒業生の中のごく一部に過ぎない。

では、毎年毎年、1万人を超える数の卒業生たちはどういう職に就いているのだろうか。細かく分ければ色々な業種が出てきているし、以前支配的だった業種は就職希望者が減少しているのだが、先ずは以前支配的だった業種がわかりやすいので挙げておく。建築設計事務所と建築工事請負業者である。安藤さんや隈さんも建築設計事務所の代表だが、彼らのように世間に名の知れた建築家と言える人はとても少なく、多くは建築設計事務所の所員として、或いは特に世間に広く名が知られてはいない建築設計事務所の所長として働いていて、これを建築界では分野としてまとめて「設計」と呼んでいる。一方の建築工事請負業者は、建築の施工を主要業務とする「ゼネコン」や「工務店」と呼ばれる企業で、分野としてまとめて「施工」と呼んでいる。ただ、日本のゼネコンや工務店は、施工だけでなく設計も業務範囲に含むケースが主流で、その場合には社内に設計を担当する従業員を抱えており、大学の卒業生の中には設計をするために「ゼネコン」や「工務店」に就職する者も多くいる。「住宅メーカー」と呼ばれる企業もこの仲間である。

士幌線「幌加駅」のターンテーブル
1987年に廃線となった帯広と幌加を結ぶ士幌線「幌加駅」のターンテーブル。

ところで、大学の建築学科の売り物の一つは、国が認めた科目の必要単位をきちんと揃えて卒業すれば、一級建築士という業務独占資格の受験資格を得られるという点であり、その「建築士」という言葉から多くの人が思い浮かべるのは「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」だという点である。実際の学生の行動を見ると、「設計」に進むつもりか「施工」に進むつもりかにかかわらず、多くの人が一級建築士の資格を取得しようと努める。建築士の試験が、「設計」にも「施工」にも必要な基礎的な知識を問うているからである。ただし、建築士の試験には、二次試験で設計の試験がある。一級建築士という資格制度が、基本的には建築設計を行える人を認める制度だからである。

必ずしもそのためにというわけではないが、大学の建築学科で建築設計の演習等を一切やらずに卒業できるところはないと思う。単位の大小はともかく、必須の科目である。時間割上もかなりのウエイトを占めている場合が多い。そして建築の設計図を描いてみたりすると、かなりの学生は自分が「安藤忠雄さんや隈研吾さんのような建築家」になることを一瞬夢見る。

「この国では設計事務所の経営を教えていないのですか?」

私が学生の時もそうだった。多くの学生が初めはぼんやりと「設計」に進むのだろうなと感じていたと思う。しかし、ある日講義中にある教授から次のようなことを言われた。

「君たち、将来設計事務所でも開いて仮に住宅の設計で生きていこうと思っているとしよう。でも、それは難しいよ。今の設計料だと、小さな住宅なら2日に一軒位のペースで設計しないと生きていけないよ」

経済的にどうなのかという観点を持ち合わせていなかった学生たちは、大いに心揺さぶられた。「設計」は無理なんだと。その後業界の実状を知れば、この教授の話はいささか大袈裟だとわかるが、当たらずといえども遠からずではあった。この設計料の実態については後ほど少し詳しく説明するが、社会経験のない学生にとってはかなりわかりにくいものだし、大学ではそういういわばビジネスとしての建築業のことは、一切教えていなかった。

それから20年程経った頃だろうか、私は大学で教える立場になっていて、その建築学科に新たにイギリス人の建築設計の先生を迎えることになった。欧米での建築教育は、日本によくある工学部建築学科とは違い、芸術学部建築学科や独立した建築学部で行われていたから、この先生も当然工学的で実学的な日本よりも、もっと芸術的な教育を受けてきたと思っていた。

しばらくして、この先生が聞きたいことがあると言って私の部屋にやってきた。質問は次のようなものだった。
先生 「この大学では、建築設計を一生懸命教えているのですが、建築設計事務所の経営については一切何も教えていないのですね。どういうことですか。これでは、卒業後学生たちは『設計』の道に進めないでしょう。だって、経営について何も知らないのだから」
松村 「先生の卒業されたロンドンのアート系の建築学校では、事務所経営について教えていたのですか」
先生 「もちろんです。事務所経営の基礎的なことは教えていました」
松村 「そうですか。日本ではこの大学に限らず、事務所経営については教えてこなかったのが実際のところです。だから、今までにもうまく経営できなかった卒業生は結構いたかもしれません」
先生 「それは私たちが教育を変えなきゃいけないでしょ。私たちの責任です」 

一式で請ける工務店の場合には、設計料という項目自体が表れないケースがあり得る

その後、この先生とは突き詰めてこの話をすることはなかった。その内に先生が退職されたので、事務所経営については就職ガイダンスのような機会に私が少し触れる程度で、学科としてどう教えるかというような議論を真正面からはしなかった。

実際、日本の事情はこの先生が考えられていたものよりも複雑で、どういう組織を想定して経営について教えれば良いかは悩ましいところだった。というのも、そもそも先述したように学生の卒業後の進路は多様で、建築設計事務所が主な就職先でもなかった。ゼネコンにも住宅メーカーにも、また官庁や地方自治体、不動産業や商社、経営コンサルタントにも就職する者はいた。だから、建築設計事務所の経営についてのみ教えるのが適当とは思えなかった。

さらに話がややこしいのは、これも先述したように、「設計」でなく「施工」分野に属するゼネコンや住宅メーカーや工務店でも、建築設計業務は行っており、その専門スタッフもいる。実際私の学科の場合、設計をやりたくて建築設計事務所に就職する学生と、設計をやりたくて大手ゼネコンの設計部に就職する学生は、数では拮抗していた。となると、例えば事務所経営の主な収入源になる設計料について、「設計」での設計料と「施工」での設計料が全く違うという実状を伝えなければならない。ただ、実際各企業が設計料をどの程度もらっているかについて正確に把握できる資料は皆無と言って良い。

飛び魚
長崎県の生月島はアゴ漁が有名。アゴとはトビウオのこと。出汁用のトビウオは広げて天日干しにする。1978年撮影。

1軒の住宅を建設するプロジェクトを考えると、「設計」は設計料だけが収入であるし、設計だけが業務なので、設計料がいくらかは死活問題になる。他方、「施工」は設計料よりも遥かに大きな額の工事費が収入になるので、仮に設計業務を行っていたとしても、経営の根幹は工事費を得られるかどうか、またその多寡によって決まる。勢い、「施工」の企業が設計料にさほどの関心がないとしてもおかしくはない。また、設計と施工の担当者や業務が明解に区別できるのならばともかく、例えば小規模な工務店になるとその区別はつけにくく、見積の中に設計料という項目を挙げていないケースも多い。

発注者から見れば、設計業務と施工業務を別々の企業に依頼するか、同じ企業にまとめて依頼するかで、少なくとも見積書や請求書の上での設計料の扱いは大きく違い得る。極端な話、設計施工一式で請ける工務店の場合には、設計料という項目自体が表れないケースがあり得る。工事に関する経費として括られていてもおかしくはない。

業界の平均的な姿を描きようがないほど、設計料の扱いはバラバラ

実際、本稿を書くにあたって、日頃付合いのある工務店8社に設計料の扱いを聞いてみたところ、私の予想に反してその扱いは個々にバラバラ、業界の平均的な姿を描きようがなかった。私の予想とは、設計料という項目自体を立てていない工務店が多いというものだったが、「一般にはそういう工務店が多いと思いますよ」という声こそ聞かれたものの、8社の中で設計料という見積り項目自体を立てていないとする工務店は1社に過ぎなかった。

予想に反して多かった設計料という項目を立てている工務店7社だが、その契約上の扱いと額は個々に違っていた。
先ず、契約上は工事請負契約と別に設計業務委託契約を締結し、工事が始まる前に一旦設計料を支払ってもらうという工務店もあれば、契約は工事請負契約一本で、清算も工事費と同時という工務店もあった。

設計料は、一般的には工事費に対する比率で計算する場合が多く、独立した建築設計事務所の場合、住宅だと10%~10数%程度が目安ではないかと言われている。これに対して、今回の工務店7社は、定額100万円としたところもあり、比率で計算しているとするところも、3~5%、6%、7%、8%、10%とまちまちだった。

業務の丁寧さ等に個別性が出るのは当たり前だが、依頼する企業によって設計業務の内容が全く違ってしまうということはない。ところが計上する設計料で見ると、こんなに幅があるというのはどういうことなのか。先述したように、設計施工一式で請けている場合には、設計業務と同時に施工管理業務の一部もやっているという従業員がいるだろうし、その場合にはある業務にかかった人件費を設計料の一部として扱うか、それとも工事に関わる経費の一部として扱うかは判断の分かれるところだ。いわば、そのあたりの匙加減で数字が変わってくるものと理解することができる。

棟梁はどうなってしまったんだ

それにしても設計費の話は、正確に説明しようとすればするほど話がややこしくなってしまい、読者にモヤモヤ感を残すだけの結果になりがちだ。どうやら今回もそうなってしまった。

ここで私が本当に言いたかったのは、日本における設計施工一式という請負形態と、それを主にする企業の広範な存在だ。あの先生の国、イギリスでは見られない産業風景なのである。だから、それこそ明治時代にイギリスの影響を強く受けて設けられるようになった設計だけを行う建築設計事務所や、その経営の根拠になる設計料は、日本では未だに落ち着く気配を見せないのだ。

この連載「ものづくり未来人」の中で述べてきたように、日本の建築生産の中心には長らく大工がいた。特にその長たる棟梁は建築の設計施工の全過程に習熟し、それを統率していた。その伝統の中にあって、住宅の建設においても、住み手が畳割を頼りに描いたラフな間取り図に代表される要望を棟梁に渡し、棟梁がその住宅を設計し、棟梁の指導監督の下でその弟子たちが施工するのが当たり前だった。設計と施工は分かち難く一つのプロセスを形成していた。設計料という費目が立てられる必然性はなかった。

欧州においても、そのような棟梁を頂点とする設計施工体制に類するものがなかったわけではない。中世から続く「マスター・ビルダー」を頂点とする体制だ。20世紀に入って、分かち難かったはずの設計施工が分離し、設計が独立した業になったのを苦々しく思っていたある人物は、次のように述べている。

「かつてのマスター・ビルダーは完全な人間であり企業家でもあった。彼は建築家であり、考える人であり、エンジニアであり、同時に実行者でもあった。彼は素材から霊感を得て、彼のアイデアへの敬意を確信した上ですべての責任を負った。彼は現場で生きた。一体彼らはどうなってしまったんだ」i

こう述べたのは、フランス人ジャン・プルーヴェ。かつてル・コルビュジェから「次の時代の新しい建築家、すなわち『建設家』」と称され、自ら考案した建築や部品を自らの手でつくるという創作スタイルから、20世紀の建築史に独特の軌跡を描いた人物である。(本稿でのジャン・プルーヴェの発言はいずれもBenedikt Huber & Jean-Claude Steinegger, “Jean Prouve”, Architecture Artemis Zurich, 1971から松村が訳出したもので、初出は 松村著『「住宅ができる世界」のしくみ』、彰国社、1998年)

プルーヴェは更に次のように語っていた。
「今日、建築家は技術的な思考から離れた場所に追いやられ、実行の現場からの距離はさらに大きくなっている。いまや彼は代理人、時にはビジネスマンである。彼は創作者ではなく、管理人になってしまったのである」
「施主、建築家、技術的図面屋と工事請負人はいつも分かれていて、それぞれの利益は矛盾している。今こそ新しいタイプの建築家が求められている」 

デザイナーと建設家は常に一つのチームとして対話をしなければならない

プルーヴェ自身はフランスの国家資格に照らして言えば、建築家ではなかった。
彼は1901年にナンシーに生まれ、そこで育った。彼が生まれた頃、ナンシーではエミール・ガレたちが活躍し、芸術と工業の融合を目指した運動「アール・ヌーボー」の発信地として知られていた。ジャンの父、ヴィクトル・プルーヴェもエミール・ガレの仲間の画家。そんなこともあり、ガレがジャンの名付け親でもあったらしい。

そんな瑞々しい芸術運動の地で育ったジャン・プルーヴェは、自らは20世紀的なエンジニアになることを希望していたようだが、家庭の事情からか高等教育機関に上がることを断念し、13歳から地元の鍛冶職人の下に徒弟として働きに出た。17歳で鍛冶職人として独立。20歳代半ばからは同時代の建築家との交流を深め、彼らの建築の部分のデザインと製作を依頼されるようになった。そして、30歳代になると「ジャン・プルーヴェ・アトリエ」を開設、建築のほぼ全体のデザインと製作を任される機会も出てくるようになった。

職人として鍛えられたプルーヴェは、ある時自らの信条を次のように述べている。
「第一に作業中の仕事をよく見ること。そしてそこからインスピレーションを得ること。第二に進んだ技術の実行の中で選択できる自由を発見し、その決断は決して延ばさないこと。第三に変革はただ実行の積重ねの結果でしかあり得ないと認識すること。これらのため、デザイナーと建設家は常に一つのチームとして対話をしなければならない」
こうも述べている。
「建物以外のすべての物は、一つの組織、或いは一つの企業に対応する一つの産業でつくられている」
本稿の文脈に則した言い方をすると、設計と施工は常にワンチームであるべきだということになる。

そして、40代半ばになろうとしていた1944年にナンシー郊外のマクセヴィルに設計事務所を内包した工場を設立し、1952年までの8年間、設計即製作という理想の創作環境を実現した。いわく
「月曜日に設計されたものは、火曜日の朝現物になっていた」

ビジネスマンたちはどんな建築にも使用できるエレメントを量産しようとした

「職人」というと保守的な人物のイメージを持たれるかもしれないが、プルーヴェは新しい技術の吸収にどん欲な人だった。だから彼のマクセヴィルの工場には、常に最新のプレス機械等が揃えられていた。一時は、ここで250名の従業員を率いていた。航空機産業等の他分野から、仕事の面白さを聞きつけて転職してくる人もいたという。先端的で挑戦的な工場だったのだろう。

夕焼けの海岸線と山
刻々と色を変えていく夕焼けのなかで海と山を望む。

ところが、このプルーヴェの理想の創作環境は突然壊されてしまった。大株主の大企業によってである。プルーヴェ自身は「二度とあなたの工作所に近づかないように」と追い出されてしまった。大変悲しい結末である。なぜそうなったのか。プルーヴェは次のように述べている。
「新しい人(ビジネスマン)たちは理想的な共同作業の精神を理解せず、商業的な意味をもつ建築様式をみつけ、どんな建築にも使用できるエレメントを量産しようとした。これは私の考えとははなはだ違っていた」

これまでに売行きの良かったものだけをカタログ化し、いわばその過去の作品を量産すること。そんなことを求められたが、それは毎日違うもの、新しいものをつくることを信条とするプルーヴェとは相容れなかった。経営と魅力あるものづくりのあり方の間の矛盾を象徴する悲しい出来事だった。

悲しい矛盾を阻むことはできないのか

この話を知った1990年頃に私の立てた問いは、
「もう半世紀も前に起きたこの悲しい矛盾は、20世紀末の今でも同じように起こるのか。半世紀の間に変化した技術がそれを阻むことはできないのか」
というものだった。そして、私の結論は「あの悲しい矛盾を阻むことの可能性は高まっている」というものだった。更に30年程の技術変化を経た今日ならば、もっとはっきりと「悲しい矛盾は阻むことができる」と言えるだろう。

鍵の一つは情報技術の進展。これによって、同じものを量産しなくても経営目標の生産性を達成することを可能にする道は開けている。もう一つの鍵は工作機械の小型化、低廉化である。プルーヴェの時代には想像もつかなかったような自在な造形を可能にする3DプリンターやCNC加工機が、小さなワークショップに装備できる時代が来ている。この時代には、形を変えた「プルーヴェのマクセヴィル工場」が経済的に成立する。そして、新しい時代のマスター・ビルダーを見られる日も遠くないだろう。 

情報技術の進展と新たな業態の出現

ものづくりの過程の分断を嫌ったジャン・プルーヴェの精神。それは20世紀の新しい工学技術の適用に果敢に取組みながらも、19世紀的なクラフトマンシップを忘れない、そのようなものづくり人の精神だった。そして、この20世紀的なものと19世紀的なものの矛盾なき融合は、21世紀の今、技術的には可能になりつつある。ものづくりにおける「プルーヴェ・モデル」を現代において実現する上での一番の阻害要因は、組織的な設計と施工の分業化という社会体制にある。ただ、このことに関しても情報技術の進展が状況の変化を促しつつある。(なお以下においては、拙著「希望を耕す 情報共有と参加」、Ace2022年4月号、(一社)日本建設業連合会 から引用し加筆する)

2021年の秋、建築分野でのICT活用に関する展示会のパネルディスカッションに司会役で呼ばれた。聞けば、「生き残れるか、建築設計事務所」というタイトルで、パネルは三つの建築設計事務所関連団体、即ち日本建築家協会日本建築士会連合会日本建築士事務所協会連合会それぞれの会長と、ICT活用という観点から建築情報学会会長も加わった四名だとのこと。「生き残れるか」というのは表現が少々過激に思えたので、「生まれ変われるか」に変えることを提案したが、主題は「生き残れるか」という理解でお引き受けした。

そのディスカッションの内容を紹介する紙幅はないが、ここではICT活用で何故そういうテーマになるのかについて説明しておきたい。

ICTとして、ここで主に想定されたのはBIM(Building Information Modeling)である。企画、設計、行政手続き、施工、維持管理等といった業務の段階毎に、異なる書類や図面を整える形で明確な分業体制が長年定着してきた建築界のあり様を完全に変えてしまう。BIMはそうした可能性を秘めている。建築物に関する三次元モデルに各種の情報を関連付けるBIMは、プロセスの初期段階から様々な立場の人が参加し、それらの人がモデルを手掛かりにコミュニケーションすることによって、情報としての建築の完成度が高まっていくプロセスを可能にし、従来の例えば設計、施工というプロセスに沿った役割分担自体を意味のないものにする可能性がある。そのようなBIMの普及によって将来大きく再編されるかもしれない建築プロジェクト・チームの中で、本稿の冒頭で「設計」として括った建築設計事務所の立場はどのように確保されるのか、つまりどのように「生き残れるか」という問いが発せられるのはよく理解できる。

この文脈でBIMが象徴しているのは、プロジェクト関係者間での情報共有と、それによるプロジェクトの透明度の高さということになるだろう。情報共有や透明度の高さといったプロジェクトの属性は、業務プロセスの前後関係に沿った従来の関係者間の役割分担や、業務実施体制における重層構造を無化し、これまである段階の意思決定に加わっていなかった関係者の参加を容易にする。つまり、情報共有と透明化は、建築に関係する組織の抜本的な再編を駆動する力を持っている。

新時代の棟梁、ものづくり未来人が登場するかもしれない

ここでもう一度「生き残れるか」という問いに戻ろう。それは建築設計事務所に関するものであった。実は、その「設計」において、情報共有と参加ということを核に新たな業態モデルが同時多発的に現れ始めている。

例えば、大手建築設計事務所や施工会社に勤めていた中田理恵さん、中田裕一さんたちが、「妄想から打ち上げまで」というコンセプトの下、発注者も設計者も職人も全員参加型のプロセスを作り上げることに重きを置いて立ち上げたHandiHouse project

例えば、有名建築家の個人名を冠した所謂アトリエ設計事務所に勤めていた河野直さん、河野桃子さんたちが、「ともにつくる喜び」を合言葉に集まり、発注者もすべてのプロセスに参加するリノベーション・プロジェクトの企画、設計、施工等を手掛けるつみき設計施工社

他にも興味深い例は枚挙に暇がないが、「設計」から建築界に入った人たちが、「施工」の魅力や可能性に覚醒し、素人である発注者を巻き込みながらの新しい設計施工一式の業態に辿り着いたところが誠に面白い。未来を切拓く新しい業態は小さなところから現れるのが常だから、まだまだビジネスの規模としては大きくない例が多い。しかし、情報共有と参加という時代の流れに呼応する新たな設計施工一式の魅力的なモデルは、明らかに存在する。そうなれば、追随する者が加速度的に増えるのは時間の問題だ。そして、その先には21世紀の棟梁、或いは過去に類例のないものづくり未来人がその姿を見せてくれるのだろう。私はこの動きに大いに期待している。

今となってみれば、型にはまった建築設計事務所の経営について教えてこなかったことが幸いしたのかもしれない。

参考文献
「住宅ができる世界」のしくみ』松村秀一(彰国社 1998年)
Ace2022年4月号「希望を耕す 情報共有と参加」 松村秀一(日本建設業連合会 2022年)