安岡宏和

安岡宏和

青森県の竜飛岬。当時、近くで青函トンネルの工事が行われていた。1979年撮影。

(写真:佐藤秀明

オルタナティブとしてのシェアリング論

Web3.0によって人と社会に新しい環境が開かれようとしている今、改めて、富をいかに分け合うかについて議論を重ねていくべきだろう。平等とはパラドクスの生じやすい概念であり、その実現は容易ではない。しかし、良いヒントはある。平等であると言われる、狩猟採集社会の仕組みにそれを学んでみよう。

Updated by Hirokazu Yasuoka on November, 4, 2022, 5:00 am JST

前回は、コンゴ盆地の森にくらすバカ・ピグミーの狩猟にかかわるタブーをとりあげ、その背景にあるバカたちの〈世界〉のなりたちについての考察を述べた。今回は、そのタブーがあることによって、狩猟の成果、つまり肉が、バカたちのあいだでどのように分配されているのかを紹介し、その分配のされ方の特徴について「平等社会」との関連において考察してみたい。なお本稿では「分配」という言葉で、人と人のあいだでモノが移動すること一般を指す。つまり、モノのやりとりにはさまざまなやり方があり、それらをひっくるめて分配とよぶ、ということである。

何かを平等にすると、しばしば何かが不平等になる

読者のみなさんは「平等社会」という言葉から、どのような社会をイメージするだろうか。誰もが同じくらいの財産を持っている社会だろうか。であれば、資本主義経済が高度に発達し、富の偏在が甚だしい現代世界は、不平等社会だろうか。ただ、現代世界では、少なくとも理念的には法の下の平等は当然のこととされており、その意味では平等社会をめざしているともいえる。ともあれ、ある社会を不平等社会だと批判するとき、平等であるべき事柄に合意したうえでそれが実現していないのを問題視しているのか、何が平等であるべきかをめぐって論争しようとしているのかは、区別しておくべきだろう。

カカドゥ国立公園の平たいアリ塚
オーストラリア・カカドゥ国立公園の蟻塚。日差しの強い時間帯に、太陽が側面に当たらないように作られている。

そもそも、平等という概念はやっかいである。何かを平等にすると何かが不平等になる、というトレードオフが、しばしば存在するからである。機会の平等を実現すれば、個々の能力や生まれた環境によって、得られる結果はちがってくる。反対に、結果の平等を強引に実現するのであれば、わざわざ機会を平等に確保する必要はない。ほとんどの社会は、何らかの意味では平等社会といえるし、別の意味では不平等社会ともいえるのである。

物質的平等と社会的平等を成立させる狩猟採集社会の巧妙なしくみ

さて、狩猟採集社会は平等社会(egalitarian society)であるといわれる。それは、物質的平等と社会的平等が両立していることを念頭においている。物質的平等とは富が偏在していないこと、社会的平等とは権威が偏在していないことをいう。こう書くと、狩猟採集民は、みんなお人好しの純朴な人々だから、あるいはジャン=ジャック・ルソーのいうところの自然人であるから、みんな平等なのだろう、という印象を持つ人がいるかもしれない。しかし、狩猟採集民研究の重要な成果の一つは、このような原始主義(primitivism)的な思い込みが誤っていることをしめしてきた点にある。とくに興味深いのは、ある種の狩猟採集社会では、物質的平等と社会的平等がユニークなかたちで両立している点である。なぜユニークかというと、人類学の標準的な理論にもとづくならば、これら二つの平等の両立はトレードオフになるからである。

まず、どうしてトレードオフになるのかを説明しよう。物質的平等と社会的平等を両立させるためには、中長期的に誰もが同じだけの富を生産すればよい。ある人が連続して獲物を仕留めて、たくさんの人に肉を分配したとしても、中長期的に誰もが同じくらいの獲物を仕留めるのであれば、分配のバランスは保たれる。しかし現実には、この条件は満たされていない。なぜなら、狩猟の技能は個人差が大きいため、各々の捕獲数は平均に回帰しないからである。そのうえで物質的平等の実現を徹底すれば、狩猟の上手い人から下手な人へ肉が分配されつづけることになる。このような偏りのある分配は、マルセル・モースの『贈与論』にしたがえば、社会的平等を損なうものである。贈与には競覇的な側面がある。贈与の受け手は適切な返礼をせねばならず、さもなければ与え手にたいする負い目が解消されない。したがって、偏りのある分配が常態化すれば、卓越したハンターにたいして誰も頭が上がらなくなり、特定個人の権威が卓越して社会的平等が損なわれる、と予想されるのである。しかし現実には、物質的平等と社会的平等はトレードオフされることなく両立している。これが平等社会のパラドクスである。

狩猟採集社会が平等社会であるといわれる理由の一つは、このパラドクスを回避する巧妙なしくみを持っているからである。そのもっとも洗練された例が、南部アフリカ、カラハリ砂漠のクン・ブッシュマンのやり方である。彼らのルールでは、獲物はそれを仕留めた矢をつくった人のものになる。また、所有者は肉を自由に処分できるわけではなく、みんなが満足できるように適切に分配しなければならない。男たちは暇があれば矢をつくり、交換したり贈与したりしているので、各々の矢筒は他人のつくった矢で満たされている。そのため、狩猟の上手な人が連続して狩猟に成功したとしても獲物の所有者はいろいろな人に分散するし、狩猟の下手な人でも他人の仕留めた獲物の所有者になることがある。したがって、狩猟の上手い人にたいする負い目がどんどん蓄積していく、ということにはならないのである。

〈0→全〉分割と〈1→1〉分与

所有者=分配者をランダム化して分配の偏りをなくす、というやり方はいろいろな狩猟採集社会にみられるが、バカはそれを採用していない。バカたちが槍を貸し借りすることはよくあるものの、前回述べたタブーの対象となるのは武器の持主ではなく、あくまで獲物を殺したその人であるし、武器の持主が肉の所有者として分配を差配するわけでもない。そもそもゾウ狩りでは、武器の入手可能性を含めて狩猟の能力の個人差がきわめて大きく、しかも一度に膨大な肉をもたらすので、所有者のランダム化のやり方はうまく機能しないように思われる。では、バカたちはどうやってパラドクスを回避しているのだろうか。

まず前回の記述をふまえて、バカたちによる肉の分配を「分割」と「分与」という二つのフェーズに区分しておこう。

1. 分割:ゾウを殺した男をのぞいて、狩りに参加していた男たちが、各々、肉を取る。「誰のものでもない肉」をその場にいる全員で分かちあうという意味で、このフェーズは〈0→全〉分割といえる。
2. 分与:狩りに参加した男たちが、燻製にした肉の一部をキャンプにきた人々に分ける。すでに「自分のものである肉」を別の誰かに与えるという意味で、このフェーズは〈1→1〉分与といえる。

狩猟採集社会の食物分配に関する研究では、社会関係や状況に応じてなされる分与のフェーズがとくに注目されてきた。〈1→1〉分与とは、典型的には贈与である。一般に何かが贈与されるとき「わたしが–あなたに–与える」という主客の非対称な関係性が顕示される(主客関係が顕示された時点でそれはもはや純粋な贈与ではない、という哲学者もいるが、ここでは深入りしない)。そして、返礼によってこの非対称性を解消せねばならない、と感じることで、受け手に負い目が生じる。しかし、返礼はつねに可能というわけではない。その場合、主客の非対称性は社会関係の優劣に転化する。農耕社会に多くみられるビッグマン型の首長はこの作用を逆手にとり、贈与をとおしてみずからの権威を高めるのである。

分与のフェーズだけをみれば、バカたちの肉の分配は、贈与の変形版のようにみえなくもない。しかし、根本的なところで贈与と異なっている。肉を分与するとき、バカたちはなるだけ無関心な態度をたもち、なるだけ無愛想に受け渡しをおこなう。それは、わたしが–あなたに–与える、という主客関係の顕示を、苦心して抑制しているようにみえる。おもしろいことに、だからといってバカたちは、やりとりを最小限の頻度にとどめようとはしない。それどころか、食物を平均化するのに要する以上に、頻繁にやりとりをおこなうのである。肉を調理した後も、キャンプ内で料理を分与したり分与されたりする。しかし、なぜバカたちは、無愛想であると同時に過剰な分与をするのだろうか。

シェアリングの原理としての〈0→全〉分割

この問題の糸口は、肉の分与は独立した行為ではなく、それに先立つ分割の延長上にある、という点にある。前回述べたように、人間と動物と精霊の三者関係として狩猟が実践されるバカたちの〈世界〉では、ゾウを殺した男はその肉を食べることができない。このタブーの作用によって、巨大な肉の塊が、無主物として置き去りにされる。そこでは、わたしが–あなたに–与える、という主客関係が消失してシェアリングの共同体が構築され、〈0→全〉分割がなされる。なお、このタブーはイノシシにも適用されるが、集団槍猟でイノシシが仕留められたとき、イノシシを殺したのがタブーから解放されている男であっても、彼が肉の所有者ないし贈与者してふるまうことはない。シェアリングの共同体のたんなる一員として肉を分割し、他の人々と同じだけの肉を手にするのみである。

セントラルオーストラリア
セントラルオーストラリアの大自然。

これに類する例は、他の狩猟採集社会でも報告されている。たとえば、カナダの北極圏に住むイヌイトにとって、狩猟とは野生動物を「誘惑」することである。イヌイトの誘惑にのった動物は「肉を分かちあえ」という命令とともに、イヌイトにみずからの身体をさしだす。その肉をイヌイトたちが分割して食べることで、動物は再生できるとされている。バカでは獲物を殺した男が「消去」されるのにたいして、イヌイトでは「狩る」という経験の意味が変換されたうえで「誘惑」した男は共同体の一員に留まっている。しかし、いずれの〈世界〉でも、わたしが–あなたに–与える、という主客関係が巧妙に退けられたシェアリングの共同体が構築されることにより、対等なメンバーどうしのフラットな行為として、肉が分割されているのである。

このように分配原理として〈0→全〉分割がまずあって、それにつづく表面的には〈1→1〉分与にみえる分配は、あくまで〈0→全〉分割の延長上にあるのだとすれば、なぜバカたちが無愛想で同時に過剰な分与をするのかが理解できるだろう。いったん肉の分割がなされた後、自分の手元に肉があり、肉を持っていない誰かが目の前にあらわれたとしよう。そのとき肉を持つ者はある種のプレッシャーを感じる。ただし、それは以前その人から何かをもらったことにたいする負い目に起因するものではない。個人の心理の水準でいえば、周囲の人々の期待を感じとることに起因するものであり、構造の水準でいえば、目の前にある肉の不均等な配置に起因するものである。だからといって、これみよがしに肉を分与すると、贈与的な主客関係を強調してしまうことになる。バカたちにとって、それは農耕民のような「嫌な奴」のふるまいである。したがって、主客関係を顕示しないよう配慮しつつ、とりあえずは目に見える範囲で肉の分割を反復しておこう、というわけである(上述したブッシュマンの例は、この枠組でも理解することができる)。なお、分割は無限につづくわけではなく、一つの鍋で調理できる量より細かく分割されることはあまりなく、その後は料理の分配をとおしてシェアされる。

シェアリングという選択肢

ここまでバカによる〈0→全〉分割を原理とするシェアリングを、贈与に典型的な〈1→1〉分与と対比させながら、平等社会のパラドクスの解法について考察してきた。そもそもパラドクスが生じるのは、贈与論の枠組みのなかで狩猟採集民の分配について考察していたからであった。狩猟採集民の分配が、贈与とはまったく異なる原理によるのであれば、物質的平等と社会的平等はトレードオフにはならないのである。

今日、資本主義体制のオルタナティブとして贈与論への関心が高まっている。しかし贈与は、市場をとおした分配や国家による再分配に含まれないあらゆる分配のやり方をカバーしているわけではない。したがって、贈与論とならぶもう一つの選択肢として〈0→全〉分割を原理とするシェアリング論を構築することが必要であろう、というのがわたしの主張である。

むろん、狩猟採集社会でみられるシェアリングは小規模な集団においてしか実現しないのではないか、それゆえ現代世界のグローバルな問題について考えるさいにはほとんど役に立たないのではないか、という指摘もあるだろう。しかし、ICTの飛躍的な進化によって、分配の量的規模や空間的広がりにかかわる制約がどんどん小さくなっていくことはまちがいない。シェアリングという選択肢を知っていることは、これから加速していくであろうDXのなかで、わたしたちの想像力の幅を広げることにつながるはずである。

参考文献
人間不平等起源論』ジャン=ジャック ルソー 中山元 訳(光文社 2008年)
集団:人類社会の進化』河合香吏 編(京都大学学術出版会 2009年)
森棲みの社会誌:アフリカ熱帯林の人・自然・歴史Ⅱ』木村大治・北西功一 編(京都大学学術出版会 2010年)
平等論:霊長類と人における社会と平等性の進化』寺嶋秀明(ナカニシヤ出版 2011年)
贈与論 他二篇』マルセル・モース 森山工 訳(岩波書店 2014年)
贈与論再考:人間はなぜ他者に与えるのか』岸上伸啓 編(臨川書店 2016年)
絶滅危惧種を喰らう』秋道智彌・岩崎望 編(勉誠出版 2021年)