岡西政典

岡西政典

北極のジャコウウシ。氷河期を生き延びたと言われている。

(写真:佐藤秀明

生きている生物を分けていくことで、人は世界の解像度を上げている

膨大な量のデータを使えるもの、意味あるものにしていくためには、人類が古くから取り組んできた「分類学」の知識が数多のヒントを与えてくれるかもしれない。分類学者、岡西政典氏に分類学とは何かを紹介してもらう。

Updated by Masanori Okanishi on October, 17, 2022, 5:00 am JST

名前がついたからこそ、人類は新型コロナに早い対策を打てた

分類学とは、生物に名前をつけ、認識可能にすることで、人類が生物を利用することを可能としている生物学のいち分野である。例えば世界を騒がせたSARS-CoV-2、いわゆる新型コロナウイルスも、名前がつけられているからこそ、いち早く世界中で情報を共有することができ、感染拡大を防ぐ対策を打つことができた(ウイルスを生物と捉えるかは議論があるが)。また、新型コロナウイルスの対抗策として開発されたワクチン(特にmRNAワクチン)の製造には大腸菌が用いられる。この大腸菌にはEscherichia coliという名前がつけられており、そのお陰で、我々は大腸菌を用いた研究や、その先にある科学技術の恩恵に預かっている。

このEscherichia coliというアルファベットの綴りこそが、生物学で用いる「学名」である。我々人類という生物種にも、Homo sapiensという学名がつけられている。これは、人類が共有できる唯一の綴である。「ヒト」と綴っても、「ホモ・サピエンス」とカタカナで綴っても、それは正式な学名とはならないし、当然、それをもって世界中の人と、ヒトという生物の情報をやり取りすることはできない。分類学の世界では、必ず生物に学名を付ける。現在、世界中で約200万種に上る生物に、このアルファベットの学名がつけられているのである。

この世は新種だらけ。分類ができている生物は2割にすぎない

さて、ここまで話すと、分類学にはきっちりしたプラットフォームがあり、全ての生物はその中にきっちり収められていると思った方もおられるかもしれない。だが、残念ながらそうではない。この地球上の生物について、その分類については、まだまだわかっていないことが多いのだ。

その理由の一つとして、まずこの世は新種だらけである、ということが挙げられる。先程200万種ほどに学名がつけられていると書いたが、ではこの地球上の全生物の一種一種をパズルのピースであるとし、そして地球自体をパズルの台としよう。この時、既知の200万種分のピースを並べていくと、この台はどれくらい埋まっていると想像されるだろうか?おそらく、台はほとんど埋まっていて、空白の部分がちらほら、と思われる方が多いのではないだろうか。だが、実際はおそらく違う。今日の世界中の分類学者が予想するに、現在までに埋まっているパズルのピースは、実は全体のほんの一部であると言われている。

ユーカリの木
セントラルオーストラリアの大地に根ざすユーカリの樹。光を放っているようだった。

その割合は、おそらく20%程度。200万種が20%なわけだから、残りの80%、つまり、800万種の新種が、まだこの地球に未発見のままひしめいていると予想されているのである。正確に言えば、実はこの800万種という数字も確証があるわけではなく、もっと多く、この地球には1億種以上の生物種がいると予想する分類学者も存在し、逆に500万種という見積もりもある。つまり我々は、この地球上に、どれだけの生物種がいるのかという、それすらも正確にわかっていないのである。

このように、我々人類は分類学において、この地球上の生物の情報を整理しきるどころか、まだそのスタートライン、すなわち全ての種に名前をつける状況にも、まだ至れていないのである。そして現在、1年に発見される(分類学では新種を「記載する」という)新種は約2万種と言われている。単純計算でも、我々が新種(私の感覚では800万種あたりが妥当だと思う)を記載しきるには、あと400年が費やされることになる。

未知の種があること以上に、既知の種の混乱が大問題

ただし、それでも、分類学のプラットフォームはできているのだから、400年かけて気長に生物の新種を発見すれば良いじゃないか、という話になるかもしれない。当然であろう。我々は今現在、新種を知らなくても普段の生活に困ることはないし、もともと人類は分類学の近代的手法が確立される18世紀以前にも、きちんと生活をしてきていたのだから。しかしそう簡単ではない。すでに名前がつけられた200万の既知種についても、我々は解決しなければならない課題を抱えている。そしてそれは、新種が未だに記載されていないことと比べても、実はかなり大きな問題である。

その課題とは、既知種の名前が混乱している例があるということである。名前が混乱とはまた感覚的に理解が難しいかもしれない。おそらく皆様の中には、生物の名前は登録制になっており、一度名前がつけられるとそれは不変である、と考える方がおられるかもしれない。しかし、それは間違いである。生物の名前、学名は、結構頻繁に変わりうるのである。例えばよくあるのは「同種異名」という分類学上の問題である。

同じ種の生物に何度も名前をつけちゃった

私の体験を話そう。私は深海性のテヅルモヅルと呼ばれる、ヒトデに近いクモヒトデというグループの分類学的な研究を行っている。ある時、日本の深海から1911年に新種として記載されたヒメモヅル(学名:Astrocharis ijimai)について調べていた。国立科学博物館に、この種のたくさんの標本が所蔵されていたので、その分類を確かめたかったのである。そのうち、このヒメモヅルと同じグループに属している、Astrocharis gracilisという種が、フィリピンの深海から1918年に、デンマークの研究者によって記載されていることを知った。両者はよく似ており、もともと非常に微妙な違いによって分けられていたのだが、それは20世紀初期の単純な形態比較の結果に基づいていた。しかし現代になって私がたくさんの標本の形態を具に調べてみたところ、実はAstrocharis gracilisは、Astrocharis ijimaiの成長過程の一部であり、これが誤って別種として1918年に記載されてしまったにすぎないことが判明したのである。すなわち、本当は同種であるものに対して、複数の名前がついてしまったのだ。これが同種異名である(2011年に解決:Okanishi & Fujita, 2011)。

実は、分類学の世界で同種異名の発生は日常茶飯事である。ヒメモヅルの例のように深海性の種では、一度記載された後の再発見が困難なため、その名前の妥当性の検証が難しく、同種のうちの成長段階の異なる個体が別種として発表されたという例が起こり得る。また、通信手段が未発達だった時代に、連絡の不備のせいで同じ種がほぼ同時に記載されてしまった例、または、すでに誰かが記載していたことに気づかずに、後世になってその種がまた別種として記載されてしまった例など、同種異名が生まれるパターンの枚挙には暇がない。さらに、異種同名という逆のパターンもある。これは別種なのに同じ名前がついてしまっている例である。これは、気づかずにつけてしまったという例が多いように思う。

しかしいずれにせよ、一般の感覚からは信じられないかもしれないが、すでに我々人類がこれまでに独立した種と思って記載してきた生物の名前には、まだまだ「混乱」が随所に見られるのである。

膨大な情報量を持つ生物が生きているからこそ、地球・世界のことがわかるようになる

生物は情報の宝庫である。後述するように、生物の持つ生体情報は大部分がDNAと呼ばれる化学物質に原則的に集約されていて、それが四文字で表されることを考えると、各生物種、いや各個体が持つデジタル情報だけに着目しても、その情報量は凄まじいものになる。例えば、ヒト一人が一細胞に持つ遺伝情報は、文字にして60億文字分、すなわち6GBに達する(DNAは一本の紐が二重らせんの形をとり、一方の紐の情報は他方と同じなので、実際の情報量としてはこの半分の3GB)。6GBといえば現在では普通に個人が消費する情報量かもしれないが、文字情報としてはかなりのものだ。紙媒体で言えば、1600ページを超える教科書1200冊分に上り(キャンベル生物学第九版)、デジタル情報としても、通常のPCでこの文字情報が書かれたメモファイルなどを開こうとすると、すぐにフリーズしてしまうくらいの情報量である。これは程度の差はあれど、アリ一匹、カエル一匹にしても同じことが言え、さらにそれぞれの遺伝子情報が異なっていることを考えると、この地球は、DNAという文字情報に溢れた星ということになる。

さらに、生物は生きていることに大きな価値がある。「ニッチ」という生物学用語がある。日本語では生態学地的位と訳されるが、これは要するに、生物はそれぞれ種ごとに、住んでいる環境が決まっているということである。ペンギンやシロクマは、極域やその影響下にある低温地域でしか生活ができない。動物園で飼育しているシロクマが脱走したとしても、おそらくは元いた北極地方との環境の違いで死んでしまうだろう。山を彩っている植物は、標高ごとに住める場所が決まっている。だから我々はドライブで山を登った時に、地上とは違った景色を楽しむことができる。そしてその植物には、その植物に適した昆虫などが生息していることだろう。

カリブーの群れ
凍ったハドソン湾を疾走するカリブーの群れ。カナダにて撮影。

これらは、それぞれの環境で懸命に生きている。そしてその生き様は、DNAという文字情報が基になってはいるが、生物が生きているからこそ、文字通り「生きた」情報として我々に恩恵を与えてくれる。我々は地球の環境を考える時に、そこに棲む生き物からヒントを得られる。川を見てみた時、そこにサワガニが棲んでいればきれいな水だと判断できるし、ユスリカの仲間が棲んでいれば汚れていると判断できる。そしてそのようなニッチがわかっている生物はまだまだごく一部であり、我々が生物のことをより理解し、新種を記載し、そのニッチを調べることによって、そこに生息する生物から得られる環境の情報は、ぐっと解像度を増すのである。このことはすなわち、地球環境のことを理解すること、引いては我々が地球・世界のことをより「わかる」ようになることを意味するだろう。これは、文字情報が、アプリケーションを通して動画などに変換されることで初めて我々にとって意味をなすことに似ているかもしれない。

その意味で、生物を分けること、整理することには意味があるといえる。なぜなら、このような生物情報の中にいかに我々にとって有用なものがあったとしても、それの情報元がわからないのであれば、有用なデータとして使うのは危険だからである。そしてその情報元とはすなわち、生物の学名であろう。従って、学名を整理するということは、そのまま生物情報の安全な利用に直結する重要な課題であるといえる。

生物の学名は、いくらでも変わりうる可能性を秘めている

もちろん、混乱した生物の名前を整理する方法がないかと言われれば、そんなことはない。同種異名が発見された場合には、基本的には分類学の世界では、先につけられていた名前の方を優先して用いるという決まりがある。例えば先程のAstrocharis ijimaiの例で言えば、1911年に記載されたAstrocharis ijimaiを優先する。この時、Astrocharis gracilisの名前の方は無効となり、少なくとも一旦使われることはなくなる。これは先取権の原理と呼ばれ、分類学における混乱解決の基本的かつ重要な原則だ。

同種異名でも同じである。例えばカモノハシという奇妙な哺乳類には、記載当時の1799年には、Platypus anatinusという名前がつけられた。しかしこのPlatypusという綴は、実は別の昆虫にすでにつけられていたPlatypusと同じ綴であることが後に発覚した。この場合、先につけられていた昆虫の名前のほうが優先されるため、カモノハシの方の学名は現在では変更され、Ornithorthynchus anatiusとなっている。

つまり、生物の学名とは、いくらでも変わりうる可能性を秘めたものなのである。もちろんそれは生物自体が変化するわけではなく、我々の生物に対する認識が変わることを意味する。しかし、生物を利用するためには、まずその認識を定めなくてはならない。生物の認識、情報源を整理するための学問である分類学が存在し、現在もいろんな研究者によって進められている理由はそこにある。

生物を分けるという、ある種人間の本能的な行動に端を発する分類学の歴史は古く、紀元前に遡ると言われている。そして近代的な方法が確立したのは18世紀だが、20世紀に入り、DNA情報が盛んに得られるようになってきた現代になって、さらに新しい方向に発展する兆しを見せている。