交流空間の喪失は、コロナ禍の重篤な副作用
近年のコロナ禍の副作用として、大学教育における授業形態その他が大きく変化したのはいうまでもない。現在数回に及ぶ流行の波のために、人が密集しやすい教育現場ではオンライン授業が導入されており、対面授業の制限が緩和された現在でも、特に必要がない限り、オンラインを続行すると宣言する教官も少なくないようだ。もともと人づきあいがいいとはいえない研究者という特殊人種にとって、オンライン技術は、めんどうくさい対面活動を忌避するための絶好の口実になっているという側面もある。
しかし正直言って、特に学生側にとってその副作用は甚大である。人が特定空間を共有することは、そこに思わぬ交流が生まれることも意味する。特に少人数の授業では、ちょっとした質問や雑談は授業後に行われることが多い。対面形式では、教官と学生、あるいは学生同士が三々五々集まってしゃべる空間が自然発生するが、オンラインでは、会議が終わればみな退出してそれで終わってしまう。しかし教育や研究は、単に必要な情報を伝達して終わり、というものではないだろう。こうした交流空間の喪失による損失は思いのほか大きい、というのが私の偽らざる印象である。
研究者が他の研究者のもとにふらっと立ち寄って、気楽な雑談をしているうちに、面白いアイデアが浮かんだ、という経験をした研究者も少なくないはずだ。『仏教の正統と異端―パーリ・コスモポリスの成立』は、上座仏教の歴史を仏典の言語面(サンスクリット語、パーリ語等)から分析した興味深い著作であるが、そのあとがきで、自分の研究 室にふらっと立ち寄る同僚との会話が、この研究のアイデアに大きく貢献したと記されていた。現在禁煙がうるさく言われるので、喫煙者は小さな喫煙用ブースに押し込まれる場合も多いが、そこでの気楽な雑談が、重要な情報交換の場になっているという話も聞いたことがある。
食堂で交わした会話は、30年後もよく覚えている
歴史的にみれば、こうしたちょっとした交流の場というのはあらゆるところに姿を現す。西洋史においては、ロンドンのコーヒー・ハウスで市民が様々な情報を交換したというのは有名な話である。これが「公共性」という概念そのものを生んだという議論すらある。またフランス文化のファンは、パリのカフェにおける様々な文化的、知的交流の様子を多くの歴史研究書を通じてよく知っているだろう。気が向いたらぶらっと立ち寄ると、そこに誰か知りあいがいて、といういわば安定した開放性が重要なのである。京都出身の友人は、東京と違って京都は狭いので、終電を気にせずゆっくり交流できるという点をよく自慢していたが、最近サードプレイスという、ちょっとした息抜きの空間の重要性が、都市研究等で強調されるのも、こうした交流の条件についての別の表現ともいえる。
ロンドン経済社会院(LSE)に客員研究員として滞在していた時、所属する学科のスタッフや院生たちは、毎週行われる研究会の後は、彼ら専用の食堂(キャンティーン)で昼飯を一緒 にする習慣があったが、こういう場で、興味深い会話が生まれることもしばしばであった。ある時、パプアニューギニア、ラテンアメリカ専門の人類学者たちと一緒に食事をした時、なぜか日本の「建前」と「本音」という概念の話になり、その諸相について、議論がおおいに盛り上がった。参加した両人とも、ゴフマン(E.Goffman)という社会学者の演劇論的アプローチに関心があったので、建前/本音の使い分けに、こうした演劇論の種を見いだしたのだろう。30年も前の会話をよく覚えているのは、こうしたちょっとした交流が様々な発想を生むという実例の一つである。このキャンティーンにはバーも設置されていたので、夕刻訪ねると酒を飲みながら歓談もできたのである。
価値観が異なる者同士が折り合いをつけるためには「トレーディング・ゾーン」が必要
他方、私の知る限り、本邦の実情は正直お寒い限りである。かつても今も、私自身が努めた職場で、こうしたさりげない交流の場があったという記憶はないし、未だにスタッフ専門の食堂すらない。他方、大学組織において、蛸壺に閉じこもりがちな研究者たちがほぼ強制的に他の分野の人々と交わる場の一つは、大学の行政関係の委員会だ。しかし現状ではそこで業務を超えた知的な交流が生まれる可能性はほとんどないといっていい。会議が多すぎて雑談する気力も沸かないという面もあるし、場合によっては利害の対立の可能性もあるため、気楽な交流の場にはならな いのである。実際、同じ職場の複雑系研究者は、コロナ禍以前から、その他の研究者とのちょっとした交流の機会が著しく減少したと嘆いていた。現実には、こうした大学行政上の業務は増大しているから、このふたつは逆相関関係なのだろう。業務上のつながりに縛られない、別の装置が必要なのである。
こうした交流の仕組みについて、物理学の研究現場から考察したのは歴史学者のガリソン(P.Galison)である。彼は理論物理学者と実験物理学者が、その価値観や実践のパターンに大きな違いがあるため、潜在的には対立する可能性があると指摘する。にもかかわらず、彼らが何とか折り合いをつけるのは、この両者が自然な形で交流する仕組みが研究所等に備わっているからだという。それを彼は「トレーディング・ゾーン」という文化人類学の用語を援用して説明している。これはお互いに言語が通じない諸部族が、にもかかわらず交易を行う(沈黙交易)ために作られた、物々交換の場所のことである。ガリソンは、フォーマルな研究会から、ちょっとしたお茶の時間や談話する場所にいたるまで、理論屋と実験屋がいろいろな形で交流するためのさまざまな制度的仕組みを通じて、ともすれば対立しかねないふたつのグループが自然に交わることが可能になるという。近年バイオ等でみられるオープン・ラボ的な形式は、複数のラボの壁を取っ払って研究者の交流を容易にするためである。また、新規研究所の建築に関心をもっている友人のオランダ人STS研究者は、そうした交流空間がその建築計画にどう反映されている かに着目して研究を進めている。
「直線的研究計画は一種の病理だ」
さて話は変わるが、近年ほぼ毎年、論文生産の世界ランクの低下がニュースになり、対策が急務というニュースが続いている。こうした傾向への政府の対応は、選択と集中に邁進することが国際競争に生き延びるための道だとして、あたかも産業政策を引き写したような政策を続けている。だがこうした対応に違和感を感じるのは、研究活動がそもそもどういう行為かという点について、何か理解がずれているという印象が拭えないからである。
STSを含め多くの研究が指摘するように、研究過程は予期せぬ困難と挫折の連続である。その紆余曲折の中で、ちょっとした偶然のヒントが大発見につながるというケースも科学史ではよく紹介されている。ラトゥール(B. Latour)は、こうした事態を理解していない直線的研究計画は一種の病理だという極端な主張さえおこなっている。そして研究の伝統の長い地 域では、こうした偶然の方向転換をサポートする研究インフラへの理解が厳然として存在する。それは単に一部に資金を集中豪雨的に投じるだけでは生まれない、いわば研究の毛細血管を涵養することへの理解なのである。
試行錯誤を通じてネットワークを形成する時期に大金を投入しても意味がない
ちょっとした交流の場、あるいはトレーディング・ゾーンのような空間は、そうした毛細血管そのものだが、この存在は研究活動のリアルを熟知していないと見えてこないものでもある。その点で、本邦の科学政策研究者や財務官僚が、こうした研究のリアルについてどれだけ見識があるのか、正直心もとない。外から見えるのはいわば研究の大動脈だけだから、そこに血流を集中させれば能率があがるだろうというので、選択と集中という話になり、やれ卓越化だ、やれハーバード大学を見習えという話になる。だが、STS研究者のカロン(M.Callon)が指摘したように、研究の発展段階を初期と後期に分けると、研究分野の初期は、少数の研究者が未知の領域についてバラバラに探索する過程である。この段階では、研究者同士がお互いの試行錯誤を通じてネットワークを形成する。そして、ここで大金を投入しても意味がないとカロンは指摘する。他方、ゲノム研究のように装置の大型化と高速度化が勝負のわかれ目といった段階になれば、投入資金の額がかなり効いてくるのである。
それゆえ、選択と集中で大量の資金を一部に投入し、そこだけに膨大な血流が増えても、現場の毛細血管は干上がっているという事態も十分ありえるのだ。実際、こうした交流の場がほとんどない職場を鑑みるに、論文ランキングが落ちるのもやむなしという印象が残る。先の複雑系研究者の観察が正しいとすれば、それは我々の研究体制がちょうど糖尿病のように、研究の毛細血管がもろくなっているからではないのか。選択と集中への熱狂は、こうした傾向を改善するどころか、悪化させるだけという懸念がぬぐえないのである。
参考文献
『仏教の正統と異端―パーリ・コスモポリスの成立』馬場紀寿(東京大学出版会 2022年)
『コーヒー・ハウス (都市の生活史)― 18世紀ロンドン』小林章夫(駸々堂出版 1984年)
『サードプレイス―コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』レイ・オルデンバーグ 忠平美幸役訳(みすず書房 2013年)
週刊東洋経済 2018年2/10号『大学が壊れる―疲弊する国立大、捨てられる私大』
Image and logic : a material culture of microphysics Peter Galison(University of Chicago Press 1997年)
Science bought and sold : essays in the economics of science Philip Mirowski and Esther-Mirjam Sent(eds)(University of Chicago Press 2002年)