大川祥子

大川祥子

四万十川周辺では夕立を「サダチ」という。サダチが来たら畔を切れという言葉がある。田に雨水がたまりすぎないように。それほどまでに激しく降る。

(写真:佐藤秀明

戦後社会を考えるための10本

日本の歴史が大きく動いた1945年8月15日から77年が過ぎた。あらゆる節目ごとに、また大きな事件が起こるたびに「戦後」という時代は振り返られ、総括されてきたが、どうしてもその外側にこぼれ落ちる論点はある。
社会学者たちはその「何か」を発見し名前をつけるが、未だ名前をつけられていない事象・現象は無数にある。そのなかには膨大な知の欠片が潜んでいる。
戦後社会に生じた「何か」をみつけるためのよりすぐりの論考を紹介する。

Updated by Shoko Ohkawa on August, 17, 2022, 5:00 am JST

すっからかんで美しい零戦を作った私たちの倫理

二郎の「生きねば」という、開き直りの態度をとることこそが、多くの日本人が戦後にたどった道ではなかったか。冒頭で述べたように、宮崎の目には、自分の父親は「大義名分とか、国家の運命とかには全く興味がない。一家がどう生きていくか、それだけだった」というふうに映っていた。同時に、彼はそのような父親によって守られて、子ども時代を生き延びた。高度成長期のなか、「日本人」の多くは豊かな生活を手にし、経済的な繁栄を謳歌する。そして、戦争でアジア諸国を侵略し、虐殺し、人々を抑圧してきたことを忘れる。もしかすると、「戦争直後は、そうしなければ、生きられないほど厳しい時代だった」「罪の意識を忘れることは庶民の生きるための知恵だった」と正当化しようとする声があるかもしれない。だが、戦争の被害者を忘却することが、倫理的態度とは言えない。(小松原織香)

国民社会主義(ナチズム)は、共感と合意の運動である

日本は参加型社会かどうか。それは、「参加が実際に行われているか」を問うか「参加感を多くの人が持っているか」を問うかで答えが違ってくる。政治的には「参加」より「参加感」の方がはるかに重要である。そもそも政治に「参加する」のも「参加させる」のも現実的にはかなり難しい。実際何らかの形で政治に参加しようと思えば、それを議論するための知識を仕入れ、都合をつけて集まるなどの努力が必要だ。しかし普通の人にとってはそんなことをするよりも、お酒を飲んで友達としゃべっているほうがよほど快適だからだ。(佐藤卓己)

ウルトラマンを大阪万博で紐解く

「地球の平和」を守ることが強調されるウルトラマンだが、怪獣や宇宙人が来襲するのはなぜか日本だけであり、実態として守っているのは「日本の平和」である。そもそも、宇宙人であるウルトラマンには地球=日本を守る義理など一切ないはずなのに、彼は何の見返りもなしに粛々と怪獣や宇宙人を退治してくれる。ウルトラマンと地球人=日本人の関係はいたって片務的なものであり、それゆえしばしば日米安保条約にたとえられ、賛否両論を呼んできた。最新作の「シン・ウルトラマン」にまで深く浸透しているこのアナロジーは、メイン脚本家だった金城が沖縄出身の琉球ナショナリストであったことに由来している。(暮沢剛巳)

日本の戦争、大島渚の反骨

大島さんたちの世代にとって国やマスメディアは、憎しみの対象でしかない。切腹しろと言った同じ人間が米英に追従、ひれ伏している。もう偉い人を疑うだけじゃ済まない。マスメディアや国は糾弾しなきゃいけない、国家なんて認めるわけにいかない。だから大島さんの映画を見ると、日の丸が黒、完全に国家否定である。国民の強い抑止力がなければ、国家権力はいくらでもエスカレートする。そのことを大島さんは体験として知っていた。(田原総一朗)

進んで止まる事を知らない科学は、
かつて我々に止まることを許してくれた事がない

一世紀近く続いた進歩に対する信仰は根強く残っている。それがいろいろな場面で現れているため、科学も医学も経済そして我々の生活環境や態度も進歩している。「新資本主義」を掲げる岸田首相にしても、やはり政権党の人たちの頭の中には「停滞は負けだ。安定状態は敗北だ」という認識はあると思う。そしてこれはおそらく立憲民主党にだってあるのではないか。日本共産党はまた全然別の意味での社会の進歩というもの考えているだろう。日本社会はどこかでそういう考えを持っている。(村上陽一郎)

私たちを支配する「手数料」

資本主義社会で経済活動を営むということは、たとえは悪いが、カジノのような賭博場に参加することに似ている。賭博に参加するためには、人々はそのための資金を胴元に支払わなければならない。それは手数料のようなものだ。胴元(覇権国)は、一つのシステムを形成している人物であり、資本主義ゲームに参加する人たちは胴元に手数料を支払う客である。そしてそこにいる客は、手数料という名目で自分たちが胴元である覇権国にカネを巻き上げられて続けているという実感がないのだ。(玉木俊明)

表面的な歴史観を修正する、テクノロジーの補修論的転回

先端科学技術に対する関心は、何もSTSに限らない。ある種の定番化した歴史記述では、新興技術が社会変化の主要な推進力になるという暗黙の視点から、先端技術中心の歴史になっているケースも少なくない。例えばテクノロジーの歴史を、ある技術が別の先端技術に取って代わられる過程の繰り返しとして描くといった慣習がその例である。近年のデジタル技術についての歴史的回顧でも、こういう最先端の連鎖という語り口はよくみられるパターンである。(福島真人)

語り継がれず消えてしまう、もうひとつの東京

高度成長期が終わり、建築現場も機械化が進み、彼らは徐々に仕事を失っていった。1990年代に入りバブルが崩壊した後、都市部では路上生活者が急増し一気に社会問題となった。彼らはまさに「普通の人間は結婚して家庭をもち安定した住まいにいるものだ」という伝統的価値観に回収できない流民であり、当時の日本社会は激しく彼らを排除した。彼らこそが、私たちが「ホームレス」と聞くとイメージするものである。(岡村毅)

「反抗」から遠く離れて

橋本の考えでは、バブル経済が破綻した1990年代初めに10代後半を迎えた世代は、それに先立つ時代のなかで、十分な豊かさを手にした世代でもある。スタートラインの段階ですべてを手にしている若者、すなわち「王子さま」だ。親世代との「断絶」に象徴される団塊世代や、「自分は誰からも理解されないミュータントだ」という意識に象徴される新人類世代とは異なり、この世代はあらかじめ(性的あるいは物質的な)飢餓を免れている「王子さま」のような存在だと橋本は考えた。(仲俣暁生)

未来都市は「分け合う」ことで実現できる

人口が減ること自体は、特に大きな問題ではない。日本の現在の人口は、ピークから300万人ほど減って1億2534万人であるが、では300万人分だけ不幸になったのかというとそうではない。日本の人口は1967年に1億人だったが、ではそのころの人たちが今と比べて1割ほど不幸だったのか、というとやはりそれも定かではない。台湾の人口は2360万人であるが、では彼らが日本にくらべて多くの問題を抱えているかというとそういうことではない。問題は人口の多寡ではなく、課題を解決することができない都市になってしまうことである。社会の課題は次々と押し寄せる。人口減少によって引き起こされる課題もたくさんあるが、人口と関係なく災害は起きるだろうし、人口と関係なく政治と経済がうまく機能しなければ格差は広がる。(饗庭伸)