岡村 毅

岡村 毅

調布の野川。黄金色の光が差すなか、ジョギングをしている人たちがいる。住民にとって癒やしの場所だ。

(写真:佐藤秀明

宗教と医療の協働は時代の要請である

宗教と医療(科学)は分けて語られることの多い現代であるが、臨床においては、両者は協働の時代に突入しようとしている。認知症など高齢者のメンタルヘルスの研究を続けている岡村毅氏が解説する。

Updated by Tsuyoshi Okamura on July, 6, 2022, 9:00 am JST

賽の河原のエビデンス

皆さまは、EBMすなわち「根拠(エビデンス)に基づく医療」(英語ではEvidence-Based Medicine)という言葉を聞いたことがあるだろう。治療法A(例えば手術)と治療法B(例えば放射線療法)のどちらを選択するべきか、薬剤Cと薬剤Dのどちらを選択するべきか──こういった意思決定において、臨床研究をきちんと行って科学的に判断するべきだというものである。大御所がこういったとか、勘とか、そういったものに頼ってはダメだということだ。

こう書くと、そんなのあたりまえじゃないかと言われそうだが、治療法や薬剤の臨床研究をきちんとするのはとても大変で、投資と労力と知力が必要である。機械とは異なり人間というのは多様なのだから、比較しているものが本当に同じと言えるのか、そもそも診断は正しいのか、社会的文脈によっても影響を受けることも考慮しなければならないし、臨床研究はそう簡単ではない。
現代ではEBMはもはや常識となった。われわれ医師は、せっせと世界の主要な医学系雑誌に掲載された論文データベース(PUBMEDなど)を検索し続けなければならない。新しいエビデンスは永遠に出続けるからだ。私たち医師は、シシフォスの岩、あるいは賽の河原のようなところでもがいている。

医療者は物語りを引き出すことまでもが仕事になった

ところが、話は終わりではない。次にNBMすなわち「物語りと対話に基づく医療」(英語ではNarrative Based Medicine)がやってきた。患者が語る「物語」から、患者個人の背景を理解し、患者の抱える問題を全人的にアプローチしなければならない。EBMを強調するのは今ではちょっと古い。EBMも踏まえてNBMも必要なのだ。

ケニアの都市モンバサ
ケニアの都市モンバサ。通りの向こうにはモスクが見える。イスラム教徒が多いが、マサイ族も町に住んでおり、槍を持ったままバスに乗ることもある。

単純化すると、以前は「現代医学で最適の治療法はXです」と伝えればよかったのが、いまでは「現代医学ではX、Y、Zの治療法があり、それぞれのメリットとデメリットはこうです」と伝え、「あなたのことを教えてください」といった感じで患者さんの価値観や考え方を知り、その上で対話をして、納得できる意思決定を共に作っていかねばならない。これをSDMすなわち共同意思決定(英語ではShared Decision Making)という。
最近はACPすなわちアドバンス・ケア・プランニング(英語ではAdvance Care Planning)が社会全体の課題になっている。これは死が迫る前に、将来の医療及びケアについて、本人を中心として関係者や医療者が繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援することである。人生会議などともいわれる。自分のことを周りに任せておちおち死んでいられない時代になったのだ。

医療者だけでは無理なのではないか

NBMもSDMもACPも全く正しいことであるが、実に難しい。とくに認知症が関わってくるといっそう複雑だ。現代は健康長寿社会だから、多くの人は身体疾患で死ななくなった。よって認知症になるまで長生きができる。日本の社会は、死が誕生を大きく上回り、人口減少していく「多死社会」の局面にある。いま医療現場で起きていることは、多くの認知症をもつ人が亡くなっていくという現実である。

認知症は長いプロセスである。ステージごとに関与する社会資源も様々であり(デイケア、グループホーム、特養、急性期医療、慢性期医療、総合病院、療養病床などなど)、専門職をバケツリレーのように受け渡されていくこともある。そして最も重要なことは、意思は移ろうということである。認知機能が低下した際に、以前とは全く逆のことを話す人もいる。認知症になったら余計な治療はしないでくださいねと話していた人が、認知症になり、死が迫ったときに「少しでも長く生きたい」といったりする、とはいえ病気のことも説明してもどうもわかっていないように見える場合、いったいどうしたらよいのか。認知症の人の尊厳を支える医療者の負担が、大きく切実な課題だ。

宗教という社会資源との協働を考える

行政的な思考で言えば、上記の支援をする新たな職種を作ろうとか、制度を作ろうということになるのかもしれない。地域包括支援センターとかケアマネージャーとかはそうやってゼロから出来上がったものである。厚生労働省は真面目に誠実に考えて施策を打っていることは評価すべきで、ひと悶着あった人生会議という動きも(単に批判して留飲を下げるのはもうやめて)公平に評価すべきである。ただ、縮小する日本の社会には経済的にも人的にも、新たな手を打つ余裕はもはやないように思われる。そこで筆者が注目しているのが寺院等の宗教社会資源である。寺院の数はおおよそ7万7,000(対してコンビニエンスストアの数は5万6,000)、僧侶は35万人(対して警察官は29万)なので、寺院や僧侶はかなり大きな資源である。また教義、資格認定制度、長い歴史をもつため、強靭な資源であるといえる。

寺院での介護者カフェとは

そこで、筆者の専門領域である認知症を例に、医療と宗教社会資源の協働が生まれている例を示そう。現在、認知症等の介護者のために介護者カフェを開催している寺院が、全国的に同時多発的に出現している。興味深いことに、私の知る限りそれはすべて浄土宗の寺院である。その理由はいたってシンプルで、宗派がバックアップしているからだ。東京の芝には増上寺の背後に浄土宗総合研究所という学術機関があり、いくつかのプロジェクトを行っているが、その一つとして介護者カフェを社会実装しているのである。年に1回、増上寺か知恩院(京都)で、浄土宗の寺院を対象に、「初めて講座」を行っている。なお筆者もこの講座で認知症に関して講義をしていることを付記する。さらにとても分かりやすいマニュアルを作っており、オンラインで自由に閲覧できるので興味のある方はご覧いただきたい。
このマニュアルには介護者カフェの大原則が書いてある。1)「聴く姿勢」で臨む、2)会で聞いた話は他言しない、である。近隣への周知の仕方や、司会進行の仕方も書いてあり、とても実用的である。基本的に宗教色は出さないようにしている。

茨城の那珂川
茨城の那珂川。晩秋の早朝にぐんと気温が下がり、毛嵐が川を覆った。1990年ごろ撮影。

寺院の介護者カフェは、こころある僧侶にとってもやりがいのある活動である。というのは、人々は元気な時はお寺に来るが、弱ってくると来なくなってしまう。死が近くなると、現代では病院や施設にいることが多いだろう。僧侶が再びかかわるのは、亡くなった後である。本来僧侶の皆さんは、弱っていくときにこそ寄り添い、亡くなるときも寄り添い、そして亡くなったあとも寄り添う、ということを志向している。介護者カフェは、介護者を通して弱ったときも、そして旅立った後も関わる(介護を終えた人も結構来る)ので、僧侶の本来の情熱に沿っている。医療や介護は、本人が亡くなってしまうともはやそれほど関わることはないが、寺院は四十九日法要、七回忌、さらには五十回忌や百回忌などを行う場合もある。時間軸が長く、死で終わっていない点で医療と全く異なる。

寺院の介護者カフェの衝撃

さて筆者も各地の介護者カフェにお邪魔するが、大変衝撃をうけることが多い。あるお寺では、こういう活動を待っていた、とうとう寺院が動いてくださったと、はじめから涙声で話しておられる参加者がいたりする。
またあるお寺では、こんなことがあった。若年性認知症の方が「昔みたいにゴルフがしたいなあ」といったのである。若年性認知症の方は、身体は比較的元気なことが多いが、同年代の人が現役なのに自分は会社を辞めることになってしまう場合もあり、社会で居場所がないと寂しく思っていることが多い。するとこの住職は、じゃあ打ちっぱなしにみんなで行こう、とあっという間にゴルフの打ちっぱなしに行く会を結成したのである。本人の元気な姿を見て、家族もとても喜んだという。

また、公的セクターの支援者の期待も大きいことに驚く。例えば地域包括支援センターは、地域の高齢者を支える重要な資源であるが、それ自体では基本的には「繋ぐ」ことしかできない。施設などに設置されていることもあるが、センター自体は「居場所」機能はない。そして公的セクターのスタッフも、無理を言う人、その家族、あるいは悲惨な境遇に陥っていく高齢者など、様々なストレスにさらされ傷ついている。寺院の介護者カフェでは、そういった公的セクターの支援者が、とても私的な話をしてくれることがある。ケアラーのケアを寺院が担えるのではないかと思う。
なお、教会や神社やモスクでも様々な活動をしてほしいと思うが、筆者が知る限り寺院が先んじているために紹介した。また寺院の認知症カフェの学術的分析は、筆者らの論文を参照頂きたい。

医師が宗教者を叱咤激励

上記の論文にも書いたが、このプロジェクトを始めたのは浄土宗の東海林さんという塩釜の僧侶である。彼の友人Aさんが東北大学の大学院を卒業した後、若いご家族が介護を必要とする状態になり、非常勤講師などをしながら介護をしていたのだという。東海林さんとAさんが仙台の酒場である医師に出会い、介護の苦しみをこうやって話すと楽になるんだ、といったところ、「では私のクリニックのカウンセリングルームを使いなさい」と言ってくださったのだという。

もうお分かりの方もいるかもしれないが、その医師こそは「看取り先生」として有名な仙台の故岡部健先生であった。仲良くなってからは、岡部先生は東海林さんに「俺はおまえたちの代わりをやってるんだ」「俺たちは毎日、在宅で訪れた利用者さんから『先生、あの世ってあるんですか』と言われるんだ。俺は『ある』と言って送りだしてやってるんだ。おまえらの代わり、やってんだぞ。おまえら、ちゃんとしっかりやれよ」といって叱咤激励したのだという。
岡部先生の活動は東北大学大学院文学研究科の実践宗教学寄付講座に結実したが、実は寺院の介護者カフェの源流にもいたというアナザーストーリーである。

他にも、訪問看護ステーションと連携する寺院自死を願う人と文通をする僧侶親を早く亡くした子供のためにキャンプ等をするNPOをする僧侶路上生活者におにぎりを配る僧侶などもある。筆者が知らない活動もたくさんあると思われる。日本の仏教界もやるではないか。

筆者は研究者なので、宗教者と医療の協働についてよい事例を収集し、考え方を整理し、宗教サイドと医療サイドの両者が納得のできる協働の作法を作っていかねばならないと思う。例えば米国のFaith-based organization(FBO)──これは教会がホームレス支援などの社会活動をする場合に「讃美歌を歌ったら食べ物をあげる」などといった布教活動を一切しないことを条件に、公的資金を弾力的に使える制度である──などが参考になるだろう。臨床宗教師や臨床仏教師といった優れた枠組みもある。個人的には宗派のガバナンスも改革の余地があると思っている。狡猾な徳川家康の作った「寺院が世襲され、お墓を守ることで経営が安定し、一方で社会革命を志向しなくなる」というシステムは、そろそろ変革の余地があるかもしれない。とはいえこれはなかなか危険な話題なので、いつか機会があったらしたい。

※本文の内容は著者個人の見解に基づいており、著者の所属する学術組織の見解を示すものではありません。

参照リンク
はじめよう!お寺での介護者カフェ:https://join.jodo.or.jp/wp-content/uploads/2020/03/964a0f9930a66378ad3e7a01f4122f61.pdf
Okamura T, Ura C, Shimmei M, Takase A, Shoji R, Ogawa Y. Reflections of Buddhist priests who started a dementia carers’ café in Japan. Dementia (London). 2022 Apr 22:14713012221092212. doi: 10.1177/14713012221092212. Epub ahead of print. PMID: 35452323
訪問看護ステーションさっとさんが願生寺・應典院:https://www.facebook.com/satsangah.gansyoji/
自死・自殺に向き合う僧侶の会:https://bouzsanga.org/
The Egg Tree House:https://eggtreehouse.org/
ひとさじの会:https://www.hitosaji.jp/