我々が気づかぬうちに進行するDX
昨今、社会の急速なDX化が進んでいる。若い世代は「DX化」と聞いてすぐに反応できるかもしれないが、おそらく私の親世代のような人々は、「何のことか?」と戸惑うのではないだろうか。
DX(デジタルトランスフォーメーション)は英語のDigital Transformationに由来するが、本来であれば、略語としてストレートにDTがふさわしいように思う。なぜXなのかとつっこみを入れたくなるが、おそらくXの文字を使ったほうが格好いいと考えられたのかもしれない。
トランスフォーメーションという言葉は、直訳で「変容」を表す。これは、デジタル技術を用いて、現在の生活やビジネスのスタイルを変えていくさまを総称する用語である。我々の身の回りでも、多くのDX化が気づかぬうちに、しかし確実に進行している。さまざまな業種において 、例えば社会活動、流通、経済など今後あらゆる方面でデジタル化が進み、おそらくこの革命の流れは止まらない。
では、この革命の何が問題なのだろうか。
例えば、事務作業をしている労働者は、デジタル化によって働く機会を奪われる可能性が高い。時代の流れといえば聞こえはいいが、事務労働者にも生活があるため、切実な問題だ。
SF作品『マトリックス』『ターミネーター』に見る機械と人間の関係
SF作品を例にとって、機械と人間の関係を考えてみよう。映画『マトリックス』では、機械が人間を支配する未来が描かれている。劇中では、人間は単なる発電機に成り下がっている。人間が機械を主導する立場から、AI自体が自我をもち、逆に人間を自分たちのエネルギー源として利用しようとするのである。それぞれの人間は、生まれたときからとあるカプセル内で培養されている設定であり、人間たちの生命活動によって発生する電気が機械たちの栄養源なのだ。その様子はさながら農場の収穫のようである。
一方の人類はというと、カプセルの中で目を閉じたまま幸せそうに夢見心地である。夢の中では、彼らは実際に我々が五感で感じているようなリアルな現実そのものを感じているのだ。脳がそのように錯覚すれば、嘘の現実であっても実際の現実と区別がつかないのである。夢に包まれた人々は、「機械による収穫」という過酷すぎる現実に気がついていない。90年代の地球の文明そのままを閉じ込めた世界を、幸せそうに「生きている」のだ。
ひょっとしたら、私たちも気がつかないだけで、本当はそんな夢の中にいるのかもしれない。こ の映画作品では、このような仮想現実を指す言葉として「マトリックス」を用いている。
デジタル化の時代を考えるにあたって、もう1つ紹介したいのが『ターミネーター』シリーズだ。このSF作品は、機械と向き合うというテーマに実にふさわしい作品といえよう。『ターミネーター』はもともと映画であるが、アメリカの海外ドラマとして『ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ』が現在シーズン2まで制作されており、個人的にはこちらが特におすすめである。
なお、手前味噌ではあるが、「なぜターミネーターは裸で移動する必要があるのか?」については拙著『物理学者、SF映画にハマる』(光文社新書)をご覧いただければ幸いだ。
『ターミネーター』は、ある日開発したAIが特異的に自我を持ち始め、進化を遂げて、やがて機械自体が人間を支配しようとする物語であり、いわば「人間対機械」の構図を提示するものである。基本的には『マトリックス』と似た世界観といえよう。
両作品は、いずれも「シンギュラリティ(技術的特異点 )」に到達した世界を描いているという点が共通している。シンギュラリティとは実際にAIの業界で登場する用語であり、進化するAIの知能があるところで人間の知能を上回るであろう、という予想からきている。現在の計算機技術の進歩を直線状に置き、未来の時点を算出すると出てくるのが、転換点であるシンギュラリティである。
しかし、シンギュラリティの発生が本当に起こるのかは専門家の間でも意見は割れており、私はどちらかというと懐疑的な立場である。もし本当に人類の知能を超えるようなAIが登場するとすれば、AIは私たちの予想を超える処理をしなくてはならない。しかし現状では、設計士のプログラムを勝手に逸脱するような機械は存在しない。そんなものはただのバグマシンだからである。ひょっとしたら、機械の世界では「命令を破る」というタブーを犯せる一台こそが英雄なのかもしれない。
もしシンギュラリティの可能性があるとするならば、AIが「遺伝の能力」を獲得した場合である。これは、集団の機械がなんらかのネットワークで結ばれていると仮定したもので、多数の機械集合が独自に進化し、発展するようなストーリーが想定される。遺伝という能力は、本来生き物が生き物であるための条件となっており、遺伝できるマシンを作れれば、私たちの予想を超えた進化を遂げる可能性があるかもしれない。機械自身が次世代を自分たちでデザインし、飛躍的な能力を持つ子孫を生み出すことができれば…と想像がふくらむ。
とはいえ、現状では技術者にその場で電源ケーブルを抜かれたらおしまいであるから、機械側にとってはなかなか厳しいものがあ る。そもそも機械に「人類を超えたい」という願望はなく、これも人間の予想を超えた進化ができない大きな要因といえよう。つまり、今の機械技術の単純な進歩を直線で描いていても、あまり意味がないということだ。
脱線したが、『ターミネーター』に話を戻そう。『ターミネーター』には、次のようなシーンが登場する。人間の外見をしている超美人ターミネーターのキャメロンが、未来の人間軍のリーダーとなる男、ジョン・コナーを守るために未来からやってくるのだが、そんな二人が何気なくドライブをしているシーンだ。サマー・グロー演じるおちゃめなキャメロンが、窓を開けて足を出し、風を感じながら、ふと「のびのびして、気持ちがいい」とつぶやく。しかし、そこですかさずジョンが反論する。
「おかしいだろ、君が感じる?もし、それが皮膚感覚としていっているなら、そもそもおまえには、風を感じるセンサーがないじゃないか」
「でもたしかに感じるの…」
「もし、それが心地いいとか、うれしいという感情のことだとすると、そもそもおまえには感情なんて備わっていないだろう!」
「でも気持ちがいいの…」
その言葉に、ジョンはキャメロンに少し情がうつる。しかし次の瞬間、やはりただの機械の音声に過ぎないと悟るのである。
実際に機械が何かを感じることがなくても、このようなセリフをそれっぽいタイミングで発することで、人間はあたかも機械に感情があるような錯覚を感じてしまうのだ。
“感情を持つマシン”へのアプローチ
ここで、私の祖母の話を紹介したい。高齢の祖母の家には、機械の人 形がいる。その人形は、突然「なにしてるの?」とか「おなかすいたー」などとセリフを言ってくるのだ。私は驚いたが、祖母は楽しげに人形に返事をしていた。つまり、人形の音声に答えることで、ある種の会話を楽しみ、癒しの効果を得ていたのである。これには「なるほど」と感心した。機械に感情を持たせることそのものを考えるのではなく、人間が「このマシンは感情を持っているかも」と錯覚するようなものを目指して作ることも大事かもしれないと気づいたのだ。
というのも、感情を持つマシンを作ろうと考えると、そもそも感情とは何か、つまり脳の構造を考える医学系の知識が必要になる。それを解明して、さらにマシンで…と考えていくと、そもそも生物が持つ複雑なメカニズム自体が難敵なので、実現は遥か先になってしまう。しかし、「機械に感情があると人間が錯覚する」という方向性であれば、安価で現実的な「感情を持ったロボット」を作ることができるかもしれない。
マシンに感情を持たせるためには、突き詰めていくと、機械が自分自身の「身体」という何らかの空間的範囲を自分で認識する必要がある。私たちが何気なく感じる多くの感情は、そのほとんどが脳だけでは成立せず、器としての「身体」の存在が切っても切り離せない。おそらく、脳みそだけを生かした状態で生存させても、外部の刺激を受け取る身体がないと、何も感じないであろう。つまり、脳の知能としての感情は、身体という物理的な制約や縛りがあって初めて生まれるといえる。
機械が身体を拡張する
身体と知能を考えたとき、イギリスのケンブリッジ大 学におられたスティーヴン・ホーキング先生が思い出される。ホーキング先生は、30代の頃にALSという筋肉が固まっていく難病を発症した、車椅子の物理学者として世界的に有名な宇宙論研究者である。私も彼に憧れ、ケンブリッジ大学応用数学理論物理学部(DAMTP)でイギリスの研究員として過ごした。私のオフィスは、ホーキング先生の研究室の真下にあたる場所にあり、毎日先生の車椅子のきしむ音がすると天井を見上げていた。
人間が機械と向き合うというテーマでホーキング先生を語るなら、真っ先に思い浮かぶのは「人間の機械化」である。ホーキング先生は自ら望んでそうなったわけではないものの、ある意味、身体の機械化をおこなった方である。外部へ発信する能力、たとえば声も、ほとんどマシンがおこなっていた。IBMという会社が全面サポートしており、先生の眼の動きにあわせたPCのタイピングとその音声変換、さらに呼吸するポンプまで、すべて機械であった。
ケンブリッジでのセミナーでは、中央前方の席はホーキング先生の特等席と決まっており、それを中心に教授、学生、研究員がごちゃまぜに、虹を描くように講演者に向かって座っていた。先生を後ろから眺めていると、ときおり聞こえる呼吸のためのポンプの「シュコーシュコー」という音が、まるで「リアル・ダース・ベイダー」のように感じたものだ。その観点では、ダース・ベイダーはある意味、半分機械人間を体現していた人物と見ることもできよう。
IBMの尽力もあって、ホーキング先生はALSとしては異例の長寿であったと言われている。
現代の人類は、スマホでなんでも検索し、情報を引き出すことによって巨大な知識という情報を共有し、利用している生命体といえるかもしれない。しかし、それと同時に「ググればなんでもOK」という安易な学生の行動も目立つようになり、本人自らの思考能力が日に日に退化しているのではと危惧する声も多い。
「人間の能力はどこまで拡張できるか」については、講談社から出ている 『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線』のような書籍でも取り上げられており、興味を惹かれる問題だ。未来では、もはや人間の能力と機械の能力に明確な線引きはなく、結局どちらをどれだけ頼るかというバランス次第なのではないかと思うこともある。
『マトリックス』や『ターミネーター』といったSF作品では、いずれ訪れるであろうシンギュラリティによって、社会のDX化が急速に進み、人間が機械に支配さ れる日を想定している。果たしてそんな恐ろしい未来が来るのであろうか。
そこまでいかなくても、近い将来、確実にいくつかの職業が機械に取って代わられるのはほぼ確実だ。このDX化で無くなってしまう職業とはいったいどんな種類のもので、逆にどんな種類の仕事の価値が高まるのであろうか。ぜひ皆さんにも考えてみていただきたい。
DXで得られるものと失うもの
先日、私はサウナを予約するため、とあるサイトにアクセスした。そこではなんとAIが対応をおこなっていた。しかし一見AIは便利そうに見えて、話が通じないというイライラだけが募る結果となった。
サウナの手続きにおいて「予約」と入力したら、「予約したい」という選択肢ではなく、なんと「予約確認」のみが画面に表示されたのである。AIが「これでしょう?」とばかりにドヤ顔で提示してきたのだ。いやいや待ってくれ!それじゃないよ、とAIの対応にがっかりしてしまった。
皆さんにも、似たような経験があるのではないだろうか。すべてマニュアルに従った音声案内だけで、選択肢をきちんと選んでも「私の聞きたいことと違う!」と苛立った経験が。
もちろん、回答の仕方を今後さらに改良したり、AIの理解力を上げて精度を高めることは取り組むべき課題だといえよう。しかし、果たしてAIの質問回答精度を上げることだけが、DX化の本当に目指すべき道やゴールなのだろうか。
一連の接客ノウハウのプロセスをいかにDX化して、正確に対応できるようにしたとしても、それによって失うものが多々ある。それこそ、我々日本人が感じる「もてなし」の心ではないだろうか。