遊びの達人で誰とでも仲良くなれた
僕が野田さんと出会ったのは、日本人の海外渡航が自由化されてまもなくだった。好奇心を抑えられていた日本人は怒涛の勢いでパスポートを取得し、行き先を選びだした。
世界中の観光局が、そんな日本人の誘致を狙っていた。東京には観光局のオフィスがいくつもでき、魅力的な情報を発信した。日本初の海外旅行専門誌も発行され、その編集部で働いていたのが野田さんだった。
僕はカメラマンとして編集部から仕事をもらい、野田さんと一緒に世界をまわった。
最初の渡航先はオーストラリアだった。羽田空港で待ち合わせたのだが、野田さんはチェックイン時間をすぎてもなかなか姿を表さない。ようやく落ち合えたのはフライトの30分前だ。野田さんは巨大な荷物を抱えていた。
オーストラリアに着いてから、野田さんはその荷物の中身を見せてくれた。足ヒレだの魚とり網だのと遊び道具がぎっしり入っていた。
野田さんは本当に遊び上手で、遊ぶのが大好きな人だった。
政府観光局の仕事にはガイドがつき、その人が車に乗せてあちこちと観光地を回ってくれる。僕はそれを逐一写真に収めていかなくてはならなかった。しかし、ふと気がつくと野田さんがいない。野田さんは海や川を見ると、車を飛び出して水に入っていってしまうのだった。そこで魚なんかを獲ってしまうものだから、近所の人たちは驚いて集まってきた。野田さんは獲った魚を集まった人にあげて、みるみる仲良くなっていった。
彼は遊びながら取材をしていた。あるときは、いなくなったと思ったら人の家に上がりこんで話をしていたこともあった。英語が達者というだけでなく、話上手、聞き上手で普通の人ではなかなか聞き出せないことも引き出していた。
野田さんが考案したコピーで四万十川が一躍有名に
後にカヌーや川の領域で名を馳せる野田さんだが、最初の出会いはやはり雑誌の取材だった。日本交通公社が出版していた『旅』という雑誌の企画で、僕と2人、日本の12本の川を回ることになった。
12本の川のうちの一つが四万十川だった。今は誰でも「しまんと」と読めるこの川だが、当時日本の多くの人はこの川を知らなかった。野田さんも僕も読み間違えた。それを僕たちがこの雑 誌のなかで紹介した。「最後の清流」とは野田さんがつけたコピーだ。このあと四万十川は一気に有名になった。
当時の四万十川は本当に地元の人にしか知られておらず、今よりさらに豊かだった。カヌーを漕いだ後は、テントを張り、川の水で割ったウィスキーを飲んだ。ふとテントの外を照らすと、なにかがキラキラと輝いていた。大量に蠢く川エビだった。
野田さんの取材は相変わらず面白くて、たくさんの風変わりな話を聞くことができた。熊本を流れる菊池川を旅しているときに、西南戦争を知っているというおばあさんに出会った。菊池川付近は西南戦争の激戦地で、戦いを見物に行ったのだという。そでには両軍が戦いに疲れたころを見計らい、握り飯を売りにきた人を見たらしい。そんな人がいたということを僕は聞いたこともなかった。
またあるときは、川下りのために橋の下で待ち合わせをしていたことがあった。僕がそこへ着くと、既に野田さんはそこで生活をしている人たちと酒盛りをしていた。季節労働者だった彼らは、寒い季節には南へ移動し、暖かくなると北へ向かう。渡り鳥のように移動して生活する彼らは、川の事情に詳しかった。野田さんは酒を飲みながら、情報収集をしていたのだ。
桑名で出会った渡しの爺さんのことは面白おかしく書いていた。失われつつあった「渡し」という職業は当時よく注目されていて、爺さんはたくさんの取材を受けていた。だからなかなかに威張っていた。
一連の経験は『日本の川を旅する』という本にまとめられ、日本ノンフィクション賞・新人賞を受賞した。
以来、野田さんはすっかり川の魅力に惹かれ、千葉県の亀山湖に住居を構えた。夏には信州の農家を借りて過ごすこともあった。近くの温泉への行き帰りに網を持っていくから何をするのかと思えば、藪から飛び出してくるウサギを捕えて食べた。
そんな生活をエッセイにして世に出していたら、面白い人たちが野田さんを訪ねてくるようになった。夢枕獏さんが遊びにきたこともあれば、椎名誠さんが「あやしい探検隊」を引き連れてやってきたこともある。「あやしい探検隊」は本当に怪しい人たちで、酒を 飲んで火を吹く人までいた。
未来を育てた「川の学校」
野田さんは川の魅力を伝えることにも精力的だった。吉野川で「川の学校」というものを開催し、子どもたちに川での遊び方を教えた。当時すでに野田さんは有名になっていたので、野田さんのファンである親たちからの申込みが殺到した。20名の定員はすぐに埋まり、北は北海道から、南は九州まで全国から子どもが集まった。
野田さんは「親はついてきてはいけない」ときつくおふれを出した。それでも心配な親たちは、野田さんに見つからないように1キロ前まで子どもに付き添い、その後は双眼鏡を使って見守っていた。野田さんが親の帯同を禁じたのにはわけがある。親を気にすると子どもが思いっきり遊ぶことができなくなるからだ。橋の上から川に飛び込ませるなど、危なそうに思えることもやらせていた。
「川の学校」にはおやつの持ち込みは禁止だった。では、お腹が空いたときにどうするか。自分で魚を獲って食べるのだ。なかなかのサバイバル生活だったが、みんな心底楽しんでいて、卒業式では多くの子が泣いた。
ここから巣立っていった子のなかには、環境省の役人になったり、学校で自然教育の指導をするようになったりした人たちがいる。野田さんに影響されて、川を愛する仲間が増えたのだ。
川の学校は野田さんの家族に引き継がれ、今でも存続している。コロナ禍がおさまればきっと再開するはずだ。
今では珍しいものではなくなったカヌーによる川旅だが、僕らが始めたころは、日本ではカヌーを知る人すら少なかった。
当時、河川の管理は建設省の管轄で、河口でカヌーを浮かべていたら海上保安庁に妨害をされたことがある。キャンプをしていても「誰に許可を得ているのか」とすぐに警察がきて文句を言っていた。
それでもカヌーを漕ぐことを諦めず、何年も続けていたら段々と文句を言われる機会が減り、やがては以前妨害 してきた海上保安庁に「お気をつけて」とまで言われるようになった。
そして現状は皆さんがよく知る通り、アウトドアはすっかり市民権を得ている。
ユーコン川での出会い
そしてさらに、野田さんがカヌーを日本人に知らしめるきっかけになったのが、ユーコン川の旅である。
野田さんがはじめてユーコン川に挑戦したのは1980年代のことだった。ユーコンは2700kmもある川なので、1シーズンで下りきることは難しい。暖かい季節には水量が増えすぎるし、寒くなれば川が凍ってしまうからだ。だから最初の挑戦で、野田さんは2回にわけてユーコン川を下った。
僕は野田さんに頼まれて、最後の2週間の様子を撮影しにいった。川のほとりにあるエスキモーの村を待ち合わせ場所にしていたが、なにしろ川幅が2キロもある場所だ。本当に会えるのかとても不安だった。
僕は野田さんを待ちながら、村の人たちに「カヌーに犬を乗せた男を見なかったか」と聞いてまわった。その犬はご存知の方も多いだろう、カヌー犬・ガクである。
あるとき、僕を保安官が訪ねてきた。言付けがあるという。
「カヌーに犬を乗せた男が、あと2日で来るそうだ」
2日後、保安官の言うとおり野田さんは川を下ってきた。
待ち合わせてからは、僕も一緒に川を下った。大きな事故などはなかったものの、食料が尽きてきて少し困っていた。そんなとき、川に浮かぶ商船をみつけた。日本の商社の名前が入っている。ユーコン川沿いで作られる鮭缶を運んでいるようだった。
「あの船に行けば、日本食が食えるぞ」
船に近づくと、エスキモーの船員たちが出てきた。
「中に日本人はいるか」
「いっぱいいる!」
船にあげてもらい、船室を訪ね た。確かに日本人がいた。しかし、対応はつれない。
「何か用ですか?」
それまで、旅人と知れば気遣ってくれる人々にばかり会っていたので驚いてしまった。
「ユーコン川を下ってきました」と伝えても「そうですか」としか言わない。
頭にきてしまったが、なんとか船長に会うことができ、社員食堂でごちそうにありついた。そのときのサンドイッチの美味しかったこと!僕たちががつがつと食事をつづけていると、エスキモーの船員たちが集まってきた。
「◯◯の村にある白い家をみたか?あれはうちなんだ」
「◯◯の方まで行ったのか、すごいな。自分も行ってみたい」
彼らはユーコン川のことをよく知っているので、下ってきたという僕らに対して敬意を払ってくれた。