松浦晋也

松浦晋也

川崎の工業地帯。工場のシルエットの向こうに月が浮かび上がっていた。2010年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

観測衛星が映す、世界の思惑と技術の発展

宇宙開発の歴史を読み解いていくと、隠された各国の思惑や技術の進歩の軌跡が見えてくる。科学ジャーナリストの松浦晋也氏が、宇宙開発における国際政治と市場のニーズ、そして技術を読み解く。

Updated by Shinya Matsuura on April, 25, 2022, 0:00 am JST

技術面から考えても無理のあった、地球観測データの商業化

前回書いた通りアメリカは1980年代、地球観測衛星「ランドサット」シリーズの商業化にあたって「ランドサット4/5」から新たに搭載されたセンサー「画像用放射計(Thematic Mapper、TM)」の解像度30mに合わせ、「商業販売できる地球観測データの解像度は30mまで」という政策を打ち出した。これは、それ以上の高解像度データは偵察衛星の領域に入るので、一般向けに販売した場合に外国政府に利用される可能性があると考えたからだった。が、実際には民間のニーズはより高い解像度のデータにあり、ランドサットの商業化は迷走を繰り返した。

ここにもうひとつ、ランドサットの商業化が進まなかった理由がある。当時のコンピューターの演算速度では、地球観測データを満足な速度で処理するためには莫大な投資が必要だったのだ。
一例としてランドサットTMのデータを考えてみよう。TMは7つの波長で地表を185km幅でスキャンしていく。30m解像度で一列6160画素だ。一方、光の強さは各波長ごとに256段階、すなわち8ビットで記録される。ここで、可視光域の波長データ3つを使って、185km×185kmの正方形の土地のデータを処理してカラー画像を生成するとしよう。するとデータのサイズは、6160×6160×8×3で、約9億1070万ビット。おおよそ100Mバイトとなる。

「なんだ、大したことない」と感じるのは、我々が2022年に生きているからだ。ランドサット4は1982年7月に打ち上げられたが、その3ヶ月後、日本電気は最新の16ビットパソコン「PC-9801」を発売した。インテルの16ビットCPU「8086」互換の「NEC μPD8086」を採用し、主記憶は128Kバイトで、640Kバイトまで拡張可能。外部記憶装置の5インチ・フロッピーディスクドライブ装置(容量320Kバイト)はオプションで価格29万8000円(消費税はまだない)である。
とてもではないが、100Mバイトの画像データを処理できる仕様ではない。

ドバイの衛星写真
ランドサット衛星から撮影されたドバイ。(写真:Voran/shutterstock)

当時は地球観測衛星のデータを処理するには、可能な限り演算速度の速い、強力かつ高価な大型コンピューターに、思いきりメモリを載せ、しかも財布が許す限り大容量のストレージを接続することが必須だった。データの保存は磁気記録テープで行われた。もちろんデータの交換もネットワーク経由ですぐに、というわけにはいかない。物理的にテープを送付することで行う。地球観測データでビジネスをするためには、これだけの道具立てが必要だったわけだ。これで、「地球観測データを民間に売って商業化を」というのは初めから無理があった。

コンセプトはあれど、技術は発展途上だった

1980年代からしばらくは、半導体技術がムーアの法則に従って発展したので、アメリカで「1992年陸域リモートセンシング政策法」が公布された1992年10月には大分状況は良くなっていた。当時は、WindowsマシンよりもAppleのMacintoshのほうが画像処理が得意だったので、中間機種だったMacintosh Quadra700を例に取ろう。CPUは32ビットのモトローラ68040(動作周波数25MHz)、メモリーは標準4MBで最大20MB。ストレージはハードディスクドライブ(HDD)の時代となって、230MBのHDDだ。まだまだ100MBの画像データを処理するには力不足だが、かなり良くなった。もっとも、一通り揃えると100万円を超えたわけだが。

1990年代ともなると研究開発の分野では、Sun MirosystemsやSONYが、UNIX系OSを採用し、イーサネットでネットワーク接続可能なワークステーションと呼ばれる個人向けコンピューターを販売するようになり、個々の研究者が自分の研究テーマに合わせて、地球観測データの画像処理を行うことが可能になりつつあった。データのやり取りも、音楽用CDの規格をデータ保管用に転用するCD-ROMが出現して、少しずつではあるが、テープに頼らずにできるようになっていった。

この時期のことを思い出すと、色々珍妙なものがあった。今でも苦笑してしまうのは、1990年頃に、科学技術庁系の一般財団法人・リモート・センシング技術センター(RESTEC)が配布していた「ももっぴい」というものだ。
宇宙開発事業団(NASDA)は、1987年2月に初めての地球観測衛星「もも1号(MOS-1)」を打ち上げ、その観測データをRESTECが有料配布するようになった。はっきり書くならアメリカの商業化政策の後追いである。が、当然データ利用は進まない。そこで出て来た販促品がももっぴいだ。もも1号の観測データサンプルと閲覧ソフトをPC-9801用の1.2MBの3.5インチフロッピーディスク1枚に収めて、配布したのである。

「サンプルをどうぞ」というわけだが、当時のPC-98の画像表示能力は640×400ドットで16色というもの。しかもOSはMS-DOSであり、特に画像系のソフトは、きちんと動かすためにconfig.sysとかautoexec.batといった設定ファイルや起動時のスクリプトを自分で書く必要があった。
当時私は宇宙関連ニューズレター誌の記者をしていて、取材先でももっぴいを貰ったのだが、先輩と顔を見合わせ「これどうします?」「放っとけ!記事を書くのが優先だ」で終わったのだった。
あの時、ももっぴいを手に入れ、ちゃんともも1号が取得した画像を閲覧し、それで地球観測データの解析の道に進んだ学生・研究者はどれほどいたのだろうか。見当も付かない。

1994年になると、大分状況は変化し、地球観測データのサンプルもCD-ROMで配布されるようになった。この頃の私はパソコン雑誌編集部に在籍していた。そこで、フランスの地球観測衛星「SPOT 1」の観測データが入ったCD-ROMを、Macintoshに読み込み、米Adobe社の画像処理ソフト「Photoshop」でファイルを開いて表示させる——という記事を書いた。Photoshopのバージョンは2.5だったと記憶している。Macintoshは既に、RGB各8ビットで1670万色のフルカラー画像を表示する能力を備えていた。私はソニーのトリニトロン管ディスプレイに表示された地表のカラー画像に目を見張り、Photoshopで、「シャープ」をはじめとした初歩的な画像処理をやってみた。その体験は鮮烈なもので、「これで地球観測データの扱いが変わるかもしれない」という希望を感じたのだった。

独自路線を辿ったフランスの地球観測衛星開発

ところで、「分解能30mまで」という政策は米政府の内政に属する。米国以外の国は、外交的にアメリカに配慮することはあっても、基本的に米政府の国内向けの政策に追従する必然性はない。
欧州諸国は比較的、アメリカに対して独立した態度を取る。なかでもフランスの独自路線は徹底している。米ソが核兵器を配備すれば、自分も核兵器を開発して配備する。フランスの核兵器開発を米英が批判すると、1966年には北大西洋条約機構(NATO)を脱退してしまう(復帰は2009年)。
宇宙分野でもこの独立姿勢ははっきりしていた。例えば有人宇宙開発では、アメリカとソ連を両天秤にかける等距離の協力を徹底した。フランス人初の宇宙飛行士であるジャン・ルー・クレティエンは、1982年にソ連の「ソユーズ T6」宇宙船に搭乗、宇宙ステーション「サリュート6号」に6日間滞在している。

そのフランスは、1970年代後半から地球観測衛星の開発に向けて動き始めた。その最初の成果が、1986年2月に打ち上げられたフランス初の地球観測衛星「SPOT 1」だ。SPOT 1には「HRV(High Resolution Visible Imaging system)」というセンサーが2基搭載された。同じセンサーを2基搭載した理由は、2つのセンサーで同時に観測することで立体画像を得るためである。観測幅60kmとランドサットの1/3以下だが、このHRVの分解能はランドサットよりも高かった。

HRVは、カラー画像を得るための可視光2波長帯、近赤外光1波長帯(この3つの画像で、カラー画像を作成する事が出来る)に加え、幅広い波長帯の可視光を受光してモノクロ画像を得る仕組みになっていた。分解能はパンクロマチックが10mで、その他の可視光・近赤外3波長帯が20mだ。これらの画像は、フランスの国策会社スポット・イマージュ社から民間に販売された。つまりSPOT 1の本格稼働と共に、アメリカのイオサット社を通じた地球観測衛星事業の民営化には、手強いライバルが出現したのである。その後フランスはSPOTをシリーズ化し、2014年の「SPOT 7」まで7機を打ち上げた。HRVは徐々に改良されて、SPOT 5以降は分解能2.5mになった。

なお、フランスの地球観測衛星開発は、最初から安全保障用途の偵察衛の開発と軌を一にしたものだった。米ソが偵察衛星を保有するなら、当然フランスも偵察衛星を持つべきなのだ。フランスは、1995年からSPOT衛星と同じ基本構造を持つ偵察衛星「Helios」シリーズの打ち上げを開始した。こちらは地表の特定地点を拡大して撮影する「望遠レンズ付き」の衛星だ。こちらは第一世代の「Helios 1A/B」の2機、第2世代の「Helios 2A/B」の2機、合計4機が打ち上げられた。

フランスとも異なる道を歩みはじめた日本

では日本はどうか。日本もまた、ランドサットの影響を受けて、科学技術庁と宇宙開発事業団が地球観測衛星の開発を始めた。フランスと異なったのは、ランドサットの「陸を観測する」に対して、「海の状況を把握する」という別の目的を立てたことである。
日本の場合、ここにもうひとつ通産省系の流れが加わった。通産省はなんとか自らの管轄する産業育成という分野で宇宙産業を立ち上げ、権限を拡げたかったのである。
通産省が目を付けたのは、宇宙からの鉱物資源探査だった。これならば傘下の資源エネルギー庁の管轄となり、通産省で宇宙技術の開発を行う名目が立つ。こうして、通産省は資源探査用の赤外センサーと、光ではなく電波を使う合成開口レーダーの研究を開始した。

日本初の地球観測衛星「もも1号(MOS-1)」は、先述の通り1987年2月に打ち上げられた。開発コード名MOS-1は、Marine Observation Satelliteの略だ。地表を可視光から赤外線で観測する「可視近赤外放射計(MESSR)」、主に海面の水温を観測する「可視熱赤外放射計(VTIR)」、土壌中の水分や大気中の水蒸気量などをより波長の長いマイクロ波の電波で観測する「マイクロ波放射計(MSR)」の3つを搭載していた。もっとも高分解能のMESSRは、分解能50mとランドサットより低い。VTIRとMSRはもっと広い領域の傾向を把握するものなので、それぞれ分解能は数km程度だった。

一方、通産省系の技術開発は、1992年2月打ち上げの「ふよう1号(JERS-1)」に結実する。こちらは、赤外から可視光で地上を撮影する光学センサー「OPS」と日本初の合成開口レーダーを搭載しており、レーダーの分解能は18、OPSが1画素が18.3m×24.2mと、分解能は少しだけランドサットより高かった。
ちなみにNASDAは1990年頃から、後に地球観測衛星「だいち」となる衛星の検討を開始した。この検討は当初「HiROS(High Resolution Obeservation Satellite)」と呼称された。搭載センサーの分解能が2.5mだったからだ。が、検討途中で名称は「ALOS(Advanced Land Obeservation Satellite)」に変更された。「ことさらに高分解能と銘打って、民間に販売する地球観測データの分解能に制限を加えているアメリカを刺激するわけにはいかない」という理由からだった。

地球観測の分解能からのぞく、各国の思惑

分解能だけが地球観測衛星の性能指標ではないし、分解能が高ければ即ユーザーニーズが高いというわけでもない。そこは注意が必要だ。だが、それでも分解能を見ていくと、衛星による地球観測という事業が胎動する期間の、世界各国の思惑がおぼろげに見えてくる。

ソユーズ
バイコヌール宇宙基地のソユーズ。宇宙船や補給船の打ち上げに使われたロシアのロケット。(写真:Anya Newrcha/shutterstock)

アメリカはランドサットの技術資産とデータの蓄積があり、偵察衛星の絡みもあって、民間に流通するデータの分解能をランドサット並みの30mに制限したい。一方、後を追うフランスも日本も、ユーザーニーズと技術の進歩を考えると、分解能は上げたい。その一方で、特に日本はアメリカと事を構えたくない。
そこに、ソ連という別の要素も入ってくる。ゴルバチョフ書記長の改革で情報公開に踏み切ったソ連は、1987年からそれ以前に撮影した軍事偵察衛星の画像を民生用途に販売するようになったのだ。これで、初期のソ連軍事偵察衛星が分解能5m程度の能力を持っていたことが明らかになった。

こうなってくると、アメリカは次の手段を打ち出す必要が出てくる。なによりも分解能30mにこだわっていたら、地球観測データのビジネス市場が立ち上がらないことは明らかだ。とはいえ、政治は巨大な惰性を持っていて、そう簡単に方針転換はできない。アメリカの地球観測データに関する政策が大転換するには、1994年まで待たねばならなかった。

ランドサットはどうなった?

ところで、前回引いた、ランドサット計画はどうなったか。「1992年陸域リモートセンシング政策法」で辛うじて存続することが決まったものの、1993年10月に後継機「ランドサット6」の打ち上げに失敗してしまった後、一体どうなってしまったのか。

ランドサットは生き残った。それも「ランドサット5」の驚異的な活躍のおかげで。
ランドサット4とランドサット5は軌道上寿命が「最低3年以上」という基準で設計されていた。だから1982年7月打ち上げのランドサット4は、1985年7月以降、1984年3月打ち上げのランドサット5は1987年3月以降、それぞれ「おまけの寿命」で運用が続いていた。
「これがいつまでも続くはずがない」と誰もが思っていた。どこかの時点で両衛星に致命的故障が発生し、運用を終了せざるを得なくなることは間違いない。

衛星の開発には時間がかかる。まったくのゼロから開発すると5年から7年、以前作ったものと同じ衛星を再度製造する場合も3年以上はかかる。ましてランドサット計画は予算の獲得に苦労し続けている。予算状況によっては、再製造でも5年以上を見込む必要がある。ランドサット6が打ち上げに失敗してしまったため、4と5の寿命が尽きたその時に、次のランドサット衛星が軌道上にある可能性はごく低かった。

事実、ランドサット4はランドサット6の打ち上げ失敗から2ヶ月後の1993年12月、地上に観測データを送信する通信システムに故障が発生して、地球観測衛星としての運用を終了した。衛星の姿勢や各部の温度計測、搭載電子機器などの状態の監視は、その後2001年6月まで続いた。打ち上げ後10年以上の観測を行えたのだから、ランドサット4は十分以上に成功した衛星だった。

が、ランドサット5は、それ以上の長期間に渡って運用され、地球観測データを地表に送信し続けた。これは、衛星全体システムを設計・製造したGEアストロ社、及び衛星の基本構造体を製造した米フェアチャイルド社の技術者達の文字通りの偉大なる勝利だった。彼らは「設計寿命3年以上」という条件で執行された予算の枠内で、それどころではない長い寿命を持つ衛星を作ることに成功したのである。

1999年4月15日、待望の後継衛星「ランドサット7」が打ち上げに成功した。この日も打ち上げから15年を経たランドサット5は、正常に動作し、地表を観測していた。21世紀に入ると、さすがに故障部位が増えたが、それでも工夫を凝らして観測は続いた。最終的にランドサット5は2013年6月5日に運用を停止した。
運用期間は29年3ヶ月4日。
2022年4月現在、ランドサット5は、「地球周回軌道で最も長期間運用された衛星」という世界記録を保持している。

参照リンク
https://landsat.gsfc.nasa.gov/article/the-thematic-mapper/
http://museum.ipsj.or.jp/heritage/pc9801.html
https://earth.esa.int/eogateway/missions/spot-1
https://www.jaxa.jp/projects/sat/mos1/index_j.html
https://www.jaxa.jp/projects/sat/jers1/index_j.html
https://www.usgs.gov/landsat-missions/landsat-7