「パンドラの匣」を開けてしまった人間たち
パンドラの匣(はこ)は、開けてはいけないもの、の代表格だ。詩人ヘシオドスの伝える神話では、パンドラはプロメテウスの弟エピメテウスに贈り物として与えられた女性。その時の持参品がピトス pithos と呼ばれるもので、本来ならば甕(かめ)だけれど、匣になったのは、人文学者エラスムスがラテン語に訳した 時にピュクシス pyxis(箱)とした為らしい。ここは太宰治も小説の表題に使っているし「パンドラの匣」としておこう。
さてエピメテウスは彼女をいたく気に入り、「ゼウスから贈り物を受け取ってはならない」という兄の忠告を忘れ、パンドラを受け入れ、あろうことか結婚してしまう。実はパンドラが持参したこの匣の中には、ゼウスの悪巧みによる仕掛があって、ありとあらゆる災厄が詰め込まれている。開けてはならない。中身を知ってはならないのに、パンドラは開けてしまう(エピメテウスが開けたという伝承もある)。さあ大変だ。地震、雷雨、竜巻、疫病が飛び出てくる。慌てて蓋をしたら、底の方にエルピス elpis が残っていた、と伝えられている。エルピスは希望と訳される。これが人類に残されたからこそ、災厄に打ちのめされず、立ち直ることができたと解釈されることもある。
そもそも、ゼウスは何故こんなややこしい仕打ちをしたのか。天界から火を盗んだり、言葉を教えたり、色々と人間に便宜を図ってやり、ゼウスを裏切ったからか。だとしても後でプロメテウスをコーカサスの岩壁に磔にできるのだから、最初から災厄をふりまけばいいじゃないか。何か隠された意味があるに相違ない。考えてみると、パンドラは「あらゆる贈り物」を意味する。ゼウスの命でヘパイストスが泥から拵えたもので、いわば人造人間。美貌と女性の能力を神々から賦与された際に「決して開けてはいけない」と言い含められたのが問題の甕なのだ。パンドラが好奇心さえもたなければ、開けてみることはなかった。なまじ知識欲をもつと、手ひどい目に遭うというメッセージとも考えられる。
さらにプロメテウスは「先見の明」を、エピメテウスは「後知恵」(この神話では後の祭りという印象はあるけれど)を意味する。プロメテウスの不在時を狙ったゼウスの奸計は、あと先を考えず行動するエピメテウスの弱みを知ってのことであった。
この寓話は、知ることの禁忌、知ることが思いもよらぬ結果を招く恐怖を伝えてもいる。
知ってはならない、見てはならない、という警告が登場する物語は他にもある。冥界から妻エウリュディケを連れ戻そうとするオルフェウスは、冥府の王ハデスから後ろを振り返って妻を見てはならないと言われ、イザナギも黄泉の国からイザナミを連れ戻そうとした際に、神と談判するイザナミを見てはならないと告げられる。どちらも見てしまうのだが、ソドムとゴモラの滅亡のときに、街から逃げるロトの妻は、「振り返ってはならない」という神の訓告を忘れて見てしまい、塩の柱に姿を変えてしまう。これが一番の悲劇か。そうそう。私が機を織っているところを見ないで下さい、という鶴の恩返しもあった。これは少々趣旨が違うけれど、知ることの禁忌はさまざまな形で伝えられている。
科学者に働かなかった「知ることへの禁忌」
同じことが現実の問題として、約2700年後に繰り返される。1938年暮れにユダヤ系女性物理学者のリーゼ・マイトナーは、ウランに中性子を衝突されると原子核が破壊され、莫大なエネルギーが放出される核分裂現象を説明する理論を考案する。翌年、この知見を伝えられた化学者オットー・ハーンが(リーゼの名前を出すことなく)論文発表したことで、多くの科学者が色 めきたつことになる。というのも、この成果を利用すれば、未曾有の破壊力をもつ科学兵器が製造される可能性があったからである。ここでは、ほぼ二つに割れてバリウム原子に変わるウラン原子核こそ、「パンドラの匣」であった。決して自然には真二つに割れるようなことはない。人為的に中性子を照射して、初めて匣は開けられるのだ。その引き金となる装置の設計と爆縮を起こす濃縮ウランを得ることが目標となる。
ナチスから逃れ、亡命先でこの先の研究をした物理学者たちは、残念なことにプロメテウスではなく、エピメテウスだったことになる。核分裂が連鎖反応を起こし、濃縮された狭い空間でそれが起これば爆弾になることが、ほぼ同時に各国の科学者に知られた。アインシュタインがルーズベルト大統領に原子爆弾の製造計画を進言する手紙を書いたことは、余りにも有名である。かくしてアメリカではマンハッタン計画が押し進められ、実際アラモゴード砂漠で人類初の地下核実験を成功させる。この時仲間と肩を抱き合い、涙を流して喜んだ、と物理学者のファインマンは後年述懐している。人間の性(さが)など分からぬものだ。周知の如く、同じ1945年に広島と長崎に原子爆弾が投下される。以後今日に至るまで、現在、ロシアのウクライナ侵攻で危惧されてはいるものの、人類滅亡の脅威さえある原子兵器は使われていない。
「恐ろしい兵器を作るべきではない」とは誰も言わなかった
他方、敵国ドイツではどうだったかと言うと、カイザー・ヴィルヘルム研究所でほぼ同時進行で開発が進められたが、完成前に敗戦を迎えた。ナチスの抬頭前は原子物理学のメッカでもあったのに、ナチスの反ユダヤ人政策で優秀な頭脳がアメリカへ流出してしまい、おそらくそれが理由で原爆を造れなかった、と言うのなら皮肉である。とはいえ、敗戦後捕虜になった同研究所の科学者が、広島への原爆投下の報告を受けて「なぜドイツで製造した爆弾が広島に?」と囁いたと言う。盗聴器に拾われ記録に残っている。原爆製造の二国間の競争はかなり拮抗していたのかもしれない。
日本では、理化学研究所の仁科芳雄がサイクロトロンを製造したものの、「原爆は作れない」と語ったことが後に知られている。だが陸軍から諮問され計画していたことは明白だし、戦後GHQから疑いを向けられたという経緯がある。ましてや、「こんな恐ろしい兵器は作るものではない」と批判した科学者は皆無である。戦後の中国、ソ連や連合国側で開発は継続され、東西冷戦もあって軍拡競争の様相を呈していくが、歯止めの警告が、例えば大統領に手紙を書いたことを悔いたアインシュタインや哲学者のラッセルらによって発せられるも、遅きに失する。まさに後悔するエピメテウス。
人類は知ることを止められないのか
プロメテウスの不在を問われるもう一つの例が、有機リン系農薬の開発である。1930年代ドイツのバイエル社がジャガイモの害虫駆除剤として、TEPP、HEPPなどの有機燐化合物を開発していたが、害虫どころか使用する人間までも殺傷する危険があるものを発見した。勿論、研究はストップ。この「毒ガス」の知識を完全に廃棄できなかったため、情報はリークされ、それをナチスが化学兵器として再開発したものが、悪名高きサリンである。
これと対照的なのは、ミラノ時代のレオナルド・ダ・ヴィンチ。イル・モーロ公の軍事顧問であったこともあり、潜水艦の設計に一時専念するが、余りにも攻撃力が高く、なおかつ戦術的に卑怯であるゆえ製造を断念する。スケッチのみが残っている。
前にも書いたけれども、レオナルドは解剖スケッチをたくさん残していて、こちらの好奇心には制御が働かなかった。科学者の探究心と好奇心が忌まわしい結末をもたらすまでの、こうした一連の物語に、なぜプロメテウスが登場しないのか。たとえ不在だとしても、警告だけはしてくれても良かろうものを、と惜しまれる。知ることへの禁忌が働かなかった背景を考える必要がある。禁忌どころか、「知ることへの偏愛」さえ感じられる知 識欲の起源はどこにあるのだろう。
パンドラの匣の神話と同じモチーフの民話や寓話の方に話を戻そう。知ることの禁忌と言えば、『創世記』にあるエデンの知恵の実の伝説である。塵からつくった男に向かって神は言う。「どの木の実をもいで、好きなだけ食べてよい。しかし、《善悪の知識の木》にだけは手を出してはいけない」。結果を言えば、男つまりアダムのあばら骨の一本からつくった女エヴァが、蛇に唆され、知恵の実を食べてしまう。蛇の台詞「食べると知恵が増して、神のように善悪を知るようになる」は本当で、蛇を無邪気に信じた二人は、多大な犠牲を払って知恵を得るのである。裸で恥ずかしいことばかりでなく、追放後には色々と知識が必要となる。
神は掟を破った二人を楽園から、すなわち果実の採集だけで食うに困らない、永遠に生き長らえることのできる土地から追放する。二人に皮の衣を作って着せてやって、二度と楽園には戻れないようにする。これまで余り指摘されたことはないようだが、「作って着せてやる」というくだりは謎めいている。これからはお前たちが自分で作るのだぞ、という意味なのか。無花果の葉などで隠す程度ではだめだと諭しているのか分からないが、蛇の指嗾により知恵の実を食したことは、すべて予定されていたことではないか、とも思えてくる。
アダムは土地を耕し地から糧を得るため労働を強いられ、エヴァは産みの苦しみを与えられる。考えてみれば、アダムが荒れ地を耕すのも、エヴァが子を産むのも、糸を紡ぐのも知恵が必要であり、季節のめぐりを知り、植物の生育を知る必要がある。家畜の殖やし方や家屋 の建造もそうだ。人類の技術史がここから歩みを始める。ものごとを知ることの善し悪しの二律背反。あたかも「知る」行為は、失楽園の代償であるかのようだ。
「心を知識によって全世界に広げよ」VS「学問に真の知恵を求める者は、英知を見出さない」
英国の詩人ミルトンは、楽園追放を叙事詩に残した。『失楽園』(Paradise Lost)である。出版は1667年。アダムとエヴァはサタンと神との間の闘いに巻き込まれるかたちで、知恵の実を食べてしまうところは『創世記』と同じである。だが神は天使ラファエルを送り、アダムとイヴにサタンの企みに乗るなと警告する。いきなり蛇が出る幕にはならない。結果は同じだけれど、神から遣わされたミカエルがアダムの子孫のたどる道を示し、人類が楽園に戻るには、神の子イエスの贖罪が必要であると説かれる。
『失楽園』の四年後に、楽園回復を主題とする続編が出版される。最初このタイトルを見たときは老人ホームの名前かと疑ったが、確かにミルトンは『復楽園』(Paradise Regained)を書き、荒野において、イエスがサタンからさまざまの誘惑の試練を受ける、福音書の重大な場面が再現されている。今は「知る」ことの話をしているので、余り寄り道はできないが(と言うか、もうかなり紆余曲折しているが)、もう少しつきあっていただきたい。悪魔の第三の誘惑が、知ることの禁忌と、知ることへの意欲との二律背反を見事に表現しているからだ。悪魔は、知識によって世界を支配することをイエスに勧める。
Be famous then
By wisdom; as thy empire must extend,
So let extend thy mind o’er all the world,
In Knowledge, all things in it comprehend (4章 221-24行)
イエスに向かって悪魔は「知恵によって有名になれ。領地を広げてゆくには、貴方の心を知識によって全世界に広げよ」。要は、知恵によって世界を支配せよと言う。古代ギリシアの哲学を学べとも言う。だが、イエスは応じない。「学問に真の知恵を求める者は、英知を見出さない」と語り、無用の知識を排して、神の啓示による知恵だけが真に大切だと説く。
ミルトンの時代の科学者は、新大陸の博物誌や実験による新しい知識の獲得に意欲をもっていて、この悪魔の誘惑は実はミルトン自身の思想でもあった、という解釈もある。ミルトンは晩年のガリレオを訪ねているほど、科学という新しい学問に期待を寄せていたのである。要するに「知ることへの誘惑」は、似たことは言っているが、ベーコンの言葉そのものではない「知は力なり(scientia est potentia)」に通じる。ミルトンは悪魔の言葉を借りて、知ることはすなわち支配すること、の可能性を謳っていた可能性がある。
知ることのあまり優しくない意味
さて知ることと、 支配することの怪しいつながりを見るために、もう一度ゼウスにご登場願うことにする。フリードリヒ・シラーの有名な物語詩(「地球の分割」Die Teilung der Erde )の冒頭を読んでみよう。
»Nehmt hin die Welt!« rief Zeus von seinen Höhen
Den Menschen zu. »Nehmt, sie soll euer sein!
Euch schenk ich sie zum Erb und ewgen Lehen –
Doch teilt euch brüderlich darein!«
ここでゼウスは世界の支配者である。それを区分けして人間に与えると宣言する。誰か一人に委譲するのではない、兄弟のように分け合えと言っている。この支配を古めかしい表現にすれば「ゼウスの知召す(しろしめす)」となる。古い日本語で「知る」の尊敬語であり、支配する・管理する、を意味する。
皇帝が知召す大地を分割して諸侯を封じて国を建てるのが封建制で、世の帝王や将軍は功労のあった臣下に土地を分け与えた。論功行賞の一つである。そして褒美に貰った土地は「知行地」となり、新しい「領主」が生まれる。知るは領る(しる)とも書く。知識や情報を得るのではなく、土地を支配・管理する第二の意味での知る、領る、は現在も「知事」や「領事」という役職名に残っている。知事は「ものごとを知っている人」ではない。コロナ禍でよくテレビに出る知事や元知事の顔ぶれを見れば、一目瞭然だ。支配者・管理者のことである。知の部首、矢・口は、武器と人間を意味することから、土地を征服して支配することに語源があるのかもしれない。植民地の住民調査や自国の国政調査は、知ることの二つの意味が出会う事例である。
知っていること、知らないことの善悪
知ることは、漠然とだけれど、良いことだと思う。この命題は意識されることはない。問われればそう答えるだろう。自明のようにも思える。
数学者ガウスは、幼少期に一から百までの和を即答し、神童と言われた。計算法を知っていたからだ。私も高一の時(a+b)のn乗の展開式を十乗まで即座に答えた。これも二項定理を知っていたからだ(パスカルさんに感謝)。紀元前585年にタレスが日食を予言できたのも、七賢人の最初の一人だからではなく、メトン周期を知っていたため。先見の明、知識があったからである。古今東西、知っていると誉められる。「何でも知っている」と誤解されたりする。しかし子供の頃に『和漢三才図会』全百余巻を記憶し、米国放浪時代は多言語を自在に使った博覧強記の学者・南方熊楠熊楠の境遇の改善に、知識はさほど役に立たなかった。
他方、知らないことは恥ずかしいとされる。ズボンよりも先に靴下を履く、文盲を「ぶんもう」と読まない、男は手紙で「かしこ」と結ばない、ワサビは醤油に溶かさずネタに載せる。爾来、知らなくて恥ずかしいことはまだあるかもしれず、内心びくびくしている。その一方で、犯人を知らないから推理小説を楽しめる訳で、知らなくてわくわくすることだってある。と言うか、こちらの方が多いだろう。旅に出る時は、ガイドブックを読まずに行くことにしている。大航海時代はVoyage of Discoveryと言われ、知らないことが探検旅行の最大の動機となった。学生時代の太宰治は、新しい数学の問題集に胸を時めかせたものの、頁をめくると巻末に答えが掲載されていて、何だ、もう答えが分かっているのか、と慨嘆したと言う。
尤も「知らないことで賞賛される」こともある。落語に「雛鍔(ひなつば)」という可愛らしい噺がある。武家屋敷の若様が庭で銭を拾うも、それが何だか分からない。問われて答える。「四角な穴が空いていて、文字が書いてある。これはお雛さまの刀の鍔(つば)ではないか」。これを伝えきいた棟梁の熊さんがえらく感心し、さすが良家の若様だ。銭を知らぬとは、と誉めた。知らないことが育ちの良さ、上品さの証しとなることもある。
「神の玉座に神と並んで座ることの出来るのは、それは学生時代以後には決してあり得ないことなのです」
最後に、知識それ自体のための知識について、今も私は、そうあれと願っている知識の有り様について、もう一度シラーの詩に戻って考えてみよう。ゼウスが大地をあらかた地主や商人や漁夫に与えた後で、ひょっこりと詩人が現れる。もうお前にやる土地はない。詩人はゼウスを讃える詩作に夢中で、やって来るのが遅れたのだ。「地球の分割」の最後の二行で、無上のポイエーシスへのご褒美が用意されている。
Willst du in meinem Himmel mit mir leben –
So oft du kommst, er soll dir offen sein.
この詩篇を三田の学生の前で朗読した太宰治は、こう訳している。「お前が此の天上に、俺といたいなら時々やって来い。此所はお前の為に空けて置く!」。知ることに勤しみ、勉学で身を立てようとする学生に向けて、余り大学には行かず、仏文科なのに独語を好んで読んだ人気作家は、こう語る。
卒業したら、いやでも分割に与るのだ。商人にもなれます。編輯者にもなれます。役人にもなれます。けれども、神の 玉座に神と並んで座ることの出来るのは、それは学生時代以後には決してあり得ないことなのです。二度と返らぬことなのです。三田の学生諸君。諸君は常に「陸の王者」を歌うと共に、又ひそかに「心の王者」を以て自任しなければなりません。神と共にある時期は君の生涯に、ただ此の一度であるのです。(太宰治「心の王者」)
知識を得たいがために、知識を得よう、とすることの純粋な動機を、太宰は、ゼウスから与えられた特権、ゼウスの玉座に就くこと、即ち「心の王者」になることだと言う。いや、むしろ学生時代が終わってからでも、世俗の雑事や巷間の騒擾から、ふと一時的に逃れたとき、あるいは夜が白む頃合いの瞑想のひととき、心おきなく友と書物を語らうとき、須臾の間の仕合わせを感じるとき。それを王者と呼ぶまでもなく、ひそやかに得心すること。これが私にとっての、知ることの意味である。
(ギリシア語の名称は長母音が含まれることが多く「プロメーテウス」「パンドーラー」のようになるが、以下では、慣例にしたがって縮めてプロメテウス、パンドラの如く表記した)。
参考文献
『仕事と日』ヘシオドス 著、松平千秋 訳(岩波書店 1986年)
『旧約聖書 創世記』関根 正雄 訳(岩波書店 1956年)
『失楽園』ジョン・ミルトン 著、平井正穂 訳(岩波書店 1981年)
『原子爆弾の誕生〈上・下〉』リチャード・ローズ 著、神沼 二真/渋谷 泰一 訳(紀伊國屋書店 1995年)
『類聚 太宰治全集10 ─随想集』太宰治(筑摩書房 1979年)
『縛られた巨人―南方熊楠の生涯―』神坂次郎(新潮社 1991年)