国家なき民と産業革命
18世紀後半のイギリスで発生した産業革命が、世界史を大きく変えた出来事であったことは間違いない。その産業革命に関する一般的な見方は、現在もなお、イングランド北西部のマンチェスターで綿織物産業が急激に発展したというものであろう。
しかし現在の研究では、もっと国際的な視野から研究しなければ、イギリス産業革命の発生は理解できないことがわかっている。そもそもイギリス産業革命が発生する以前に、インドからヨーロッパに綿が流入していた。イギリス産業革命は、インド綿に対する輸入代替産業の発展という側面があった。
肌触りがよく安価なインドキャラコの一般化は「国家的利益」だった
インドの手織りの綿織物は、インドキャラコと呼ばれた。肌触りがよく比較的安価で、イギリスだけではなく、ヨーロッパ諸国はこぞって輸入していた。インドキャラコは、中世後期には、地中海ですでに高く評価される商品であった。ヴェネツィア商人とジェノヴァ商人が、香辛料、さらに宝石、ペルシア製の絹のような高級品、インドキャラコを入手するためにレヴァントの中間商人を使って、アジアと積極的に貿易をし、インドキャラコを輸入しようとしていたのである。
たとえばGiorgio Rielloによれば1682年のイギリスでは、「フランスやオランダ、ないしフランドルの布地ではなく、キャラコを着ることが……より一般的になってきたことは、『国家的利益』だ」と、いわれたのである。( Cotton: The Fabric that Made the Modern World, Cambridge, 2013.)
この当時のイギリスは、ヨーロッパ諸国との貿易競争の真っただ中であった。イギリスがこの当時ヨーロッパ大陸(中欧)から輸入していた織物はリネンであり、ライバルであるヨーロッパ諸国から輸入するなら、イギリス東インド会社を通じてインドから輸入する方が良い、とイギリス政府は考えたのだ。
この頃のヨーロッパは重商主義時代と呼ばれ、貿易収支の黒字を各国は国是としていた。イギリスは、インドとの貿易で赤字を出す方が、ヨーロッパの競合国との貿易赤字よりはましだということだったのだろう。
キャラコへの「慣れ」がイギリスを脅かした
ヨーロッパに輸入されたインド綿は、17世紀末には、「キャラコ熱」ともいうべき現象を引き起こしたといわれていた。多数の人々が、競ってインド綿を購入しようとしていたとされてきた。だが、その人気は、多くの同時代人が言ったのとは異なり、「熱狂的(craze)」というほどでは なかったことが最近の研究ではわかっている。
この過程で重要だったのは、ヨーロッパ人が、だんだんインド綿に「慣れていった」ことであった。インド綿の販売が徐々に多くなっていったのは、インド綿にヨーロッパ人が徐々に慣れていったからであり、やがてインド綿そのものに違和感を感じなくなっていったからだ。逆にその慣れに恐れを感じたのか、イギリスでは、キャラコの輸入が禁止されたのである。
そのため、その後のインドキャラコのヨーロッパへの流入には、アルメニア人が大きな役割を果たした。
ユダヤ人よりも取引がしやすかったアルメニアの商人たち
ここでは、アルメニア人について少し話しておきたい。彼らは、主としてユーラシア大陸の陸上貿易で活躍した、国家なき民であった。
アルメニア王国は、301年に世界ではじめてキリスト教を国教としたことで知られる。アルメニア正教会は、単性論(イエスに神性しか認めない)といわれることもあるが、「自らは単性論派ではなく、むしろ、キリストの二つの本性を不可分とする自身の独特の解釈に従っている」と主張した。キリストの人性は強調されなかったものの、それが完全に無視されたのではなかった。ユダヤ人と異なり、アルメニア人は、キリスト教徒であったので、ヨーロッパ人と取引がしやすかったのだ。
現在のアルメニア正教徒は、約500万人と推定される。アルメニア人の領土は、何度も大きく変わった。しかし一般に「アルメニア」の領域として考えられている領域は、西は小アジアの高原まで、南西はイラン高原まで、北は南コーカサスの平原、南と 南東は、それぞれカラバフの山地とモーガンステップまで広がっている。
アルメニア人は、これほどの広範囲にわたる貿易に従事していた。ヨーロッパとアジアにわたる広範な地域に存在したアルメニア人の商業・金融サービスがなければ、ヨーロッパ人は、アジアでの貿易活動に従事することは不可能であった。アルメニア商人は、メソポタミア、インド、インドネシアばかりではなく、ヴェネツィア、リヴォルノ、アムステルダムに移住し、ヨーロッパにおける絹と染料の貿易をしていた。
活版印刷術の応用で、イギリスは「世界の工場」に。
アルメニア人の影響下から離脱した
アルメニア人はまた、インドで発生した染色技術をヨーロッパに伝えた。
綿に話題を戻すと、アルメニア人は、インド北西部のグジャラートで生産された綿布を、イラン、バンタム、マニラとで販売し、さらに彼らがイランで生産した綿布を、フランス、近東、東欧に販売した。そしてアルメニア人は、インドを起源とする綿の捺染技術をイランで学習したと思われる。
ヨーロッパでは、インドとは異なり、捺染工が不足していた。しかし、ヨーロッパには、紙と銅版による印刷に関する多数の経験があった。たとえば、エッチングがそれにあたる。ヨーロッパの捺染工は、インドのように手によって捺染するのではなく、銅のプレートとローラー捺染の発明によって捺染するようになった。これは、大きな技術的進展であった。さらには、印刷機を用いて大量に捺染することにも成功した。
捺染とは、英語でprintという。したがって印刷機を使い、綿織物に捺染することと、紙に印刷することは、基本的に同じ技術なのである。グーテンベルクが発明した活版印刷術が、綿織物の捺染に役立ったのだ。
多くの読者にとって、産業革命によって、紡績と織布の工程が機械化されたことは既知であろう。ハーグリーヴズのジェニー紡績機、クロンプトンのミュール紡績機、アークライトの水力紡績機、ジョン・ケイの飛び杼、カートライトの力織機などの発明品が思い浮かぶ人もいるかもしれない。だが、そこに抜けているのは、捺染工程である。大量に綿織物を製造することは、捺染、すなわちプリントの効率性が大きく上昇しなければならない。捺染工程もまた、機械化されたのである。
紡績・織布・捺染の三工程が機械化されたからこそ、イギリスの綿織物製造のコストは大きく低下し、インドの綿織物との価格競争に勝利し、イギリスは「世界の工場」になることができたのである。それは、非常に長い過程であった。そして、この長い過程のあいだに、イギリスは、そして長期的にはヨーロッパは、インドのみならず、アルメニア人の影響下から離脱することに成功したのだ。
大西洋貿易を支えた隠れユダヤ人のネットワーク
同時期に、結果として産業革命を推し進める活動をしていた民族のセファルディムたちがいる。
セファルディムとは、イベリア半島を追放されたユダヤ人のことである。イベリア半島に残ったユダヤ人は、ユダヤ教からカトリックに改宗するほかなかったが、イベリア半島を捨て、海外に移住するユダヤ人もいた。ヨーロッパのなかで、彼らが向かった主要な場所は、アムステルダム、アントウェルペン、ロンドン、ハンブルク、ボルドーであった。また、オスマン帝国に逃れたユダヤ人もおり、同帝国の経済的興隆に 大きく貢献した。
セファルディムのなかには、新世界に移住する人たちもいた。彼らの多くは隠れユダヤ人といわれる人々であり、公には別の信仰をもっているが、現実にはユダヤ教を信じる人々であった。彼らがポルトガルの植民地のブラジルからニューアムステルダム(ニューヨーク)に到着したのは、1654年のことであった。これは、一般に、ニューヨークにおけるユダヤ人共同体の発祥とされる。
セファルディムは、大西洋貿易において大いに活躍した。スペイン、ポルトガルの新世界への進出とともに、より自由な土地での活動を求め、セファルディムが大西洋貿易に従事し、さらに新世界に移住した。セファルディムは、ポルトガル、ブラジル、さらにオランダとのネットワークを形成していった。ここからわかるように、セファルディムのネットワークも、アルメニア人と同様、大変に広かったのである。
西方系セファルディムは、ディアスポラにより、海上ルートでの移動を中心として、国際貿易、海運業、金融業で大いに栄えた。彼らは、諸帝国のエージェントとなることもあれば、それらの犠牲者となることもあった。
セファルディムが「砂糖の王国」を築き、ヨーロッパの暮らしを変えた
1640年代になるまで、オランダは一時的にではあれ、ポルトガル領ブラジルのペルナンブーコとポルトガル領アフリカを占領した。それは、アメリカの砂糖生産とアフリカの奴隷制度に大きな影響をおよぼした。オランダによる占領で、ペルナンブーコに取って代わり、バイ ーアが主導的な奴隷貿易と砂糖生産をおこなう地域となった。オランダ人は、アムステルダムまで完成品の砂糖を運んだ。
ペルナンブーコが再度ポルトガルの手に落ちた1654年には、カリブ海のオランダ領植民地でサトウキビが栽培されるようになった。オランダ人のプランターと彼らが所有する奴隷が、カリブ海域に到着した。オランダ人の到着以前にもサトウキビは栽培されていたが、彼らこそ、カリブ海諸島に砂糖生産を定着させた人々であった。しかし、正確には、「オランダ人」ではなかった可能性が高い。最近では、ユダヤ人=セファルディムの役割が重要視されるようになっている。
じつは、サトウキビ栽培の移植に大きな役割を果たしたのは、オランダ人ではなくセファルディムであった。スペインとポルトガルを追放されたセファルディムは、アムステルダムとロッテルダムに避難先を見つけ、イベリア半島の故国と外国の植民地との貿易に大きく寄与した。
セファルディムの一般は、ブラジルのプランテーションで奴隷を所有していた。彼らは、サトウキビの栽培法を知っていた。そのセファルディムが、カリブ海内部のオランダ、イギリス、フランスの植民地に移住したのである。カリブ海から北米・南米にかけて見られたユダヤ人共同体の多くはセファルディムであり、彼らのネットワークにより、サトウキビの生産方法、砂糖の生産方法が新世界に広められたのである。
新世界は、「砂糖の王国」になったといわれる。それは、キリスト教徒ではなく、ユダヤ人であるセファルディムによって実現された。18世紀ヨーロッパでもっとも多くの利益を獲得できたのは、砂糖貿易であった。さらに砂糖は、食うや食わずの生活をしていたヨーロッパ人に、重要なカロリーベースを提供したのである。
国家なき2つの民族が産業革命実現を推し進めた
大西洋貿易で、砂糖以外に綿織物までも生産したのが、イギリスであった。そしてそれには、アルメニア人とセファルディムが大きく関係している。
セファルディムとアルメニア人の交易圏を合わせると、太平洋以外の地域を包摂した。ただし、メキシコからマニラまで銀を輸送するガレオン船が絹をマニラからアカプルコに輸送した事実を重視するなら、世界各地におよんだということさえできよう。ヨーロッパ諸国の対外進出によってこれらのディアスポラの民ネットワークは拡大し、西欧商人と競合・協同した。
長期的にみれば、西欧は、この二つのディアスポラの民のネットワークを利用してその勢力範囲を拡大した。そしてイギリス産業革命とは、イギリスがセファルディムとアルメニア人の影響下からの離脱を意味したのである。これらのディアスポラの民の影響圏からの離脱は、ヨーロッパが経済的に他地域を圧倒する19世紀の前奏曲となった。では、それは具体的にはどういうことだったのだろうか。
すでに述べたように、西洋貿易において、もっとも重要な商品は砂糖であった。その砂糖は、西アフリカから輸送される黒人奴隷が栽培したサトウキビから生産された。イギリスの産業革命は、奴隷にサトウキビだけではなく、綿花も栽培させた。しかも、カリブ海諸島の一部で綿花を栽培したのも黒人奴隷であった。イギリスは、セファルディムの影響 下から抜け出し、独自の大西洋経済システムを形成したのだ。
そして綿織物の捺染(プリント)技術を、ヨーロッパはアルメニア人から導入していた。それは、まだ手作業であった。イギリス産業革命とは、手作業ではなく機械によって捺染するようになったことを意味する。イギリスは、アルメニア人の影響下からの脱出にも成功した。
このように、二つのディアスポラの民の影響下から離脱が成功したときに、イギリス産業革命を嚆矢とする近代社会が誕生したのである。われわれは、アルメニア人とセファルディムが果たした歴史上の役割に、もっと目を向けるべきなのだ。
参考文献
『拡大するヨーロッパ世界 1415-1914』玉木俊明(知泉書館 2018年)
『迫害された移民の経済史 ヨーロッパ覇権、影の主役』玉木俊明(河出書房新社 2022年)
Cotton: The Fabric that Made the Modern World Giorgio Riello(Cambridge University Press 2013年)