「数十年前は桜の写真を撮る人なんてそれほど多くなかった。今はもうみんな手元にいいカメラがあるから、桜をよく撮るようになったね。やっぱり春が来た喜びを感じて、記録したいんだと思う」
佐藤氏は人々が桜を撮る理由についてそう語る。
「桜はその土地を代表する名所になっていることがあるね。山梨県韮崎市には『わに塚の桜』と呼ばれる見事なエドヒガンザクラがある。今はみんながこの桜を見るためにこの地に訪れるけれど、昔は見に来る人なんてほとんどいなくて、地面に寝っ転がって撮影することができた」
佐藤氏はとくに里山に咲く桜が好きだという。
「なかでも寺や墓地の近くには美しい桜が咲く。少し空がひらけているから花びらの色が映えるんだね。長野県の富士見町や東京のあきる野市では素晴らしい桜が見られるよ」
桜の美しさの理由に「潔さ」を認める人は少なくない。ぱっと開いて、ぱっと散る。この往生際の良さに「日本の精神」を見る人もいる。
しかしながら、このぱっと開いてぱっと散るというのは実は桜の特性というよりは、どうやら人々が市街地で最もよく目にする染井吉野の性質のようである。桜の他の品種の多くは、もっとゆっくり花を咲かせ、じっくりと散っていく。樹の成育自体も染井吉野に比べて他の多くの桜はもっとゆっくりだ。
染井吉野は現代日本において定番の桜であるが、その歴史はそれほど古くない。染井吉野は大島桜と江戸彼岸桜の自然交配種であり、江戸時代後期に江戸府豊島郡染井村で発見されたことからその名がついた。明 治期に流行となったこの種は全国に広められ、激動の時代を生き抜いていく。そしてやがて、死と再生のイメージが強く結びつけられるようになっていった。
日本近代文学研究者・小川和佑は『桜と日本人』(新潮選書 1993年)のなかで桜が死のイメージを持つようになった背景を次のように著している。
「桜……それはすこやかに輝くいのちの花であった。そこに死の翳などの入り込む余地はなかった。
その花を、明治政府のかつての志士の幸運な生存者たちである薩長の軍事官僚たちが、勝手に武人の花、死の花に変えてしまった。
明治中期、九段坂上に戊辰・西南の内戦での戦死者たちを祀った招魂社(現・靖国神社)を建立した際、その社前に桜が植樹され、明治後期の二度の外征での若い死者たちもここに合祀されて、桜は「九段の花」として軍事国家時代の国民に深く印象付けられた。
しかし明治維新で旧都となった京都の桜は、東京のように軍事官僚たちの手が入らなかった。ここでは桜は王朝以来のままにひらすら美しく、いのちの輝きと泰平の豊饒を春ごとに告げていたのだった。」(「花を見に行く」)
なるほど、佐藤氏の作品で全国の桜を見てみても死のイメージを負うものはそれほど多くない。ただひたすらにその美しさが輝くばかりである。佐藤氏も桜の儚さには魅せられたそうだが、写っている桜には無理なイメージの投影はない。
儚い美しさに酔うのも悪いものではないが、桜の美しさは本来それだけで語るべきものではないのだろう。もののあわれは思い込みを外すことで一層複雑に感じることができるかもしれない。
(文:大川祥子)