あぶり出される各国の姿勢
これほど時代離れした出来事が、実際に起こるとは、ほとんど夢想だにしなかった、というのが正直なところです。一世紀前ならいざしらず、国際化、グローバル化などが、腐るほど唱えられるようになって久しいこの二十一世紀に、ある主権国家が、他の主権国家に、堂々と武力で侵略を始めたのだから、あっけにとられたとも言えます。正気の沙汰とも思えません。実際伝えられるところによると、アメリカのある高官は、プーチン氏の精神状態を疑っているという話です。
このロシアの行為をどう捉えるか、期せずしてそれが、反応する側の立場、姿勢、判断力を露わにするリトマス試験紙のような役割を果たしているように見えるのです。北朝鮮の某高官が、悪いのはアメリカの覇権主義だ、と断じたのは、まあ立場からすれば自然な発言でしょう。中国の政府の正式な反応は、実は未だにはっきりしません。さすがに全面的にロシアを支持する声明は行っていないようですが。一部の外交官が「弱いものが、強 いものに喧嘩を売るな」という意味の発言をしたといいます。これは、ロシア=強者、ウクライナ=弱者の区別に立った上で、NATOやEUへのウクライナの加盟要請が、ロシアに喧嘩を売ったことになるのだ、だからこうした事態を招いたのだと、暗にロシアを弁護しての発言なのでしょうが、王外相は、中国は弱い者いじめはしない、と発言したとも伝えられます。果たしてこの言、台湾問題でもそうか、と強い疑念が生まれます。
個人や党の主張も浮かび上がる
国内では、珍しく、保守派・進歩派挙ってロシア批判に多くの声が集まっていますが、それでも、色々と面白いことも起こっているのです。例えば、あの鳩山由紀夫氏。いかなる戦争にも反対だと言いながら、ロシアの行動の原因は、もっぱらウクライナ政府の「ナチス」的な振舞いにある、とおっしゃったそうな。ナチスと言うなら、ロシアの今回の行動は、ナチス・ドイツがポーランドに電撃侵攻を開始した時と酷似してはいませんか。もっとも結果は大分違ったようですが。この人の判断と行動は、ある医師の(診察をしたわけではないが、公表されている限りでの言動や表情に基づく)診立てによれば、精神に異常があるのでは、なのだそうで(里見清一氏の著作参照)、かつてアメリカの新聞は、鳩山氏のことを<loopy>と称したことを思い出します。辞書がこの原語に与えている訳語を列挙してみましょうか。曰く「頭のおかしい」、「変わった」、「いかれた」、「酔っぱ らった」、「ばかな」、「ずるい」。いやはや、一国の総理(当時)に対する形容詞としては、まことに非礼には違いありませんが、そう表現せざるを得ない事情もあったと言えましょう。この方は、精神の異常はともかく、いつも、自分はそこいらの有象無象とは一味違うんだぞ、と自己開示をなさりたい方であることは確かなようです。
「平和と民主主義を守る」日本共産党の志位委員長は、「ロシアの介入は侵略であり、中止を求める」という党としての正式な態度を表明しておられます。そうでしょうね、所謂六全協で、それまでの武装闘争による暴力革命路線を放棄し、生まれ変わったとされる現在の党の立場からすれば、間違ってもかつてのような「親露」(親ソ)的な姿勢(無論かつても党は、ヘゲモニー争いもあって、親ソ一点張りではなかったことは承知していますが)は打ち出せないはずですね。その上、共産主義政権と言われる各国の有様を見る限り、極めて多くの実例が、非民主的で理不尽な行動を示してきて、それが結局は東欧圏の崩壊も含めて、現代の情勢を造り出していることを考えれば、自ら「民主的」を標榜する日本の現在の党の立場を、鮮明にしておきたい、と考えざるを得ない事情はよく判ります。
「私たちは彼に投票しなかった。」
ところで、ウクライナから届いたあるインテリ市民の便りは、ちょっと形容が難しいほど 、深い印象を与えてくれました。書簡は「私たちは彼に投票しなかった。」という一文で始まります。そして「今は、心底から、間違っていた、と思っている」と続くのです。無論「彼」というのは、ゼレンスキー大統領のことです。ウクライナの知識人の相当数が、今そんな思いを抱いているのではないか。そんな風に思います。
また、この点は、一つの仮説を導きます。プーチンの頭の中にあったゼレンスキー像も、このようなウクライナ市民の過去の評価と同じだったのではないか。つまり、ゼレンスキー氏は、すっかり見くびられていて、一揉みすれば、あっという間にウクライナ市民はプーチン様に平服するか、そうでなくても、あの指導者の下では、ウクライナの国民が、大統領に忠誠を誓って、わが身や財産を犠牲にするほどの抵抗を見せるはずはないだろう、というのがプーチンの思惑だったのではないか。無論、その前提には、ウクライナは本来ロシアの版図の一部に過ぎず、その一部地方に反逆的な政権が出来て、是正する必要がある、という想いもあったには違いないでしょう。「我々は戦争などはしていない」というロシア側の、通常の頭脳と神経では全く理解できない発言も、そんな風に考えてみれば、多少は辻褄があってくるかもしれません。要するに、今のゼレンスキー大統領の英雄的な言動は、皮肉なことに、ロシアが、この愚挙に踏み切ったために、その「真価」を表出させることになった結果ではなかったか。そんなことを思わせます。
もっとも、このような客観的、と言えば奇麗に聞こえるにしても、他人事のような発言は、今のウクライナの市民たちの置かれている苦境に、何の足しにもなりません。彼らのために、何ができるか、もどかしさの方が先に立ちます。国際的な支援窓口がすでに幾つもできています。「私たちのためにロシアと戦ってくれとは言いません、ただ、医療、食糧の助けは欲しい」という切実な声が届く度に、心が痛みます。
あり得ないはずのことが起きてしまった世界で
ただ、もう一つ、今度の戦争で恐ろしいことがあります。それは核の抑止力が逆に働いていることです。ロシアは、核の使用も辞さない、というような恫喝の姿勢を見せたと伝えられますが、まさか、本気ではないでしょう。現在の核兵器は、広島・長崎のそれよりも遥かに強力なものも多数ある一方で、より限定的な核戦力も開発されていますから、そうした限定的核戦争の可能性もないわけではないでしょうが、とにかく核の使用へのタブー感は、今日の国際社会の中で共有されてきたはずですし、それが、第三次世 界大戦への抑止力として働いてきたことも認めなければならないかもしれません。
しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻は、一国が武力で他国へあからさまに侵略を試みても、国際社会は、核を使ってまで、それを咎めることはあり得ない、つまり侵略国が致命的な武力による国際制裁を加えられることはあり得ない、ということを立証してしまったことになります。経済制裁は、何とか凌げるが、国際社会を敵に回して、核まで含む武力制裁を加えられるのは、国家として存立不能になる。この思惑は今後必要がない、となったとき、誰もが最も心配するのが、中国が台湾に侵攻する可能性が、極めて大きくなったという点でしょう。先の王外相の言葉、「中国は弱い者いじめはしない」が守られるかどうか。