課題解決に用いられる「デザイン」
近年、書店のビジネス書のコーナーを眺めると、「デザイン思考」というタイトルの書籍がよく目に付く。これらの書籍の多くは、問題のソリューションを導くために、デザイナーがデザインを行う際の思考のプロセスをビジネスに援用しようという意図のもとに執筆・出版されたものだ。
一例を挙げておこう。繁華街の駅周辺の自転車公害に悩む自治体が、あるデザイナーに駐輪場のデザインを依頼したとする。依頼を受けたデザイナーは、駅周辺の駐輪事情はもとより、人の流れ、駅舎や周囲の建物の構造や配置、利用可能な空き地や空きビルの状況などを徹底的にリサーチして、与えられた予算や日数の範囲内で最適と判断した駐輪場のデザインを提案するだろう。デザインとはクライアントの要望に応じた造形活動なので、デザイナーの提案は必然的にその要望に対するソリューションとしての性格を帯びることになる。
では、このソリューションを導くデザインのプロセスは、いかにして他の分野に応用可能なのだろうか。デザイン思考(Design Thinking)という言葉を提唱したことで知られるスタンフォード大学のデザインスクールの定義によると、デザイン思考は以下の5つのプロ セスを経るものだという(『スタンフォード式デザイン思考』ジャスパー・ウ インプレス 2019年)。
(1)観察・共感(Empathize)
(2)定義(Define)
(3)概念化(Ideate)
(4)試作(Prototype)
(5)テスト(Test)
(1)~(5)を見ていると、デザイン思考は社会のニーズを観察したうえで課題を定義し、アイデアを提案し、そのアイデアに基づいて試作を制作し、実験やリサーチを繰り返して新たな商品やサービスを生み出して問題を解決するというプロセスによって成立していることがわかる。このプロセスは先ほど例に挙げた駐輪場のデザインともピタリと一致するし、また広告業界で人々の消費行動を生み出すプロセスとしてしばしば言及されるAIDMAやAISASとも通じる部分が少なくない。
岡本太郎の考え方はデザイン思考に通じるか
ところで、岡本太郎の思考にもこのデザイン思考と通じる部分があるのではないか、と書いたらどう思われるだろうか。少なくとも、大方の読者には「何を馬鹿なことを言っているのか」と一笑に付されるに違いない。確かに、岡本のエネルギッシュな表現のための思考は、ビジネスライクなデザイン思考から遠く隔たっている感が否めない。また、前回は美術とデザインの違いとしてクライアントの有無を挙げたが、さらに付け加えるなら、クライアントの要望に応じて生み出されるデザインが問題解決であるのに対して、内発的な表現の欲求に従って生み出される美術は問題提起であるという違いがある。そして、「芸術は爆発だ!」に代表される岡本の思考は典型的な問題提起であり、問題解決のスキームであるデザイン思考とは対照的なものなのではないか、と。
だが前回確認したように、岡本は多くの局面でデザインに関わり、多種多様なデザインを生み出してきたし、またその表現は、決して自身の内発的な欲求によってのみ為されていたわけではなく、美術史はもとより哲学や民族学などを射程に収めた徹底してロジカルでスケールの大きな思考に基づくものでもあった。多くのデザインを生み出した岡本特有の思考には、デザイン思考と通じる面があるのではないかと私は考えている。
バタイユの弁証法を独自に発展させた岡本の「対極主義」
岡本独自の思考を象徴する言葉としてよく知られているのが「対極主義」である。これは、正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させることが「芸術」の要諦であるという考え方であり、例えば『岡本太郎の宇宙 対極と爆発』(ちくま学芸文庫 2011年)では以下のような形で展開されている。
ここでは、西洋の近代絵画を合理主義と非合理主義という2つの極から整理することが試みられている。この整理はもちろん岡本独自の視点によるものであったが、前回掲載したチャートを確認すれば、それが美術史的にもかなり精度の高いものであったことがわかる。
岡本が「対極主義」に言及するようになったのは、戦後間もない時期のことである。そこには、「夜の会」で協働していた花田清輝らの影響が指摘されているが、その思考のマトリックスと言うべきものはそれより以前、1930年代の滞仏時代に形成されたものと推測される。
抽象美術運動に加わったり、パリ大学で民族学を学んだりした約10年に及ぶ岡本の滞仏経験はよく知られているが、この時代に岡本に最も大きな影響を与えたのが作家・思想家のジョルジュ・バタイユであった。1936年初頭にバタイユと邂逅した岡本は、彼の手引きで研究会や秘密結社の活動に参加するようになる。バタイユの特異な思想を、岡本は以下のように要約している。
「右の神聖と左の神聖」その弁証法である。右の聖性は既成勢力であり、公認された諸権威である。ブルジョワ的な道徳、向こうになった宗教、すべてがこれだ。それをおかすものが左の神聖である。だから右にとって、左の神聖は常に破壊者、犯罪者、加害者だ。
右の聖性はおかされるものとしてある。否定される条件において神聖なのである。だからわれわれの意思は左の聖性としてそれを打倒さなければならない。ニーチェの“神は死んだ”は第一の命題であった。しかし空虚な残滓は現実のいたるところに残っている。
徹底的な否定は絶対的な肯定を前提とする。われわれ自身によって新しい神(神聖)が想像されなければならない。それはたしかに過去に絶望し、現代に裏切られた当時の若い世代が情熱をもってぶつかり、解決しなければならないぎりぎりの課題であった(『爆発と瞬間』)。
この文章を読んでいて、まず目に留まるのが冒頭の「弁証法」という言葉である。言うまでもなく、弁証法とはヘーゲルが提唱した「正(テーゼ)/反(アンチテーゼ)/合(ジンテーゼ)」からなる、西洋の近代合理主義精神の代名詞とも呼ぶべき三段論法である。だがヘーゲルを精読したバタイユはその論理を徹底的に批判する。この要約でヘーゲルの弁証法に対置されているのが、バタイユが独自の視点から再構築した、ヘーゲルのそれとは全く異質な弁証法だ。既成勢力としての「右の聖性」と、破壊者、犯罪者、加害者としての「左の聖性」。とりあえずここまでの図式はヘーゲルの「正/テーゼ」「反/アンチテーゼ」と同じである。しかしその先にあるのは、両者の対決や侵犯であって、「合」に相当する部分が存在しない。このおよそ弁証法らしからぬ弁証法は、ほとんど岡本の「対極主義」そのもののように思われる。岡本は滞仏中も帰国後もしばしばヘーゲルの弁証法への違和感を表明していた。彼にとって、「合/ジンテーゼ」は対決や侵犯、分裂のエネルギーを縮減する認めがたいプロセスであり、それを取り除いたバタイユの弁証法は大いに魅力的に映ったのだろう。そのことを踏まえれば、岡本の「対極主義」はバタイユの弁証法を独自に発展させたものと言うことが出来る。
「主義」から離れるために
画家としての岡本は、当然のことながら自らの制作活動において「対極主義」を実践した。戦後間もない時期に制作された「重工業」(1949年)や「森の掟」(1950年)はいずれも岡本の代表作と目される絵画作品であるが、この両作品はいずれも多視点的な空間把握を追求した抽象絵画の合理性と無意識の表現を目指したシュルレアリスムの非合理性との対決の上に成り立っており、充実した作品を生み出したという点において、「対極主義」が有用な作品の制作原理であったことは間違いない。だが岡本は、ほどなくして「対極主義」から遠ざかろうとするのである。
なぜだろうか。もちろん、「対極主義」に代わり得る有用な制作原理を見出したからではない。そもそもこれほど強力な原理など滅多にあるものではない。逆説的な言い方だが、「対極主義」があまりに有用であるがゆえに、岡本は一旦そこから距離をとる必要があったのである。その点について、美術評論家の椹木野衣は「対極主義が『主義』であるかぎり、それは美術史の内部に閉ざされ、結局その『外』に出ることはできない。ゆえに対極主義は、単なる絵画を描く上での構成上の問題に収まることなく、後に『絵画』のための方法であることを大きく越えて、つまりは美術の一問題であることを超えて、(岡本)太郎の生を貫くすべての局面へと拡張されねばならなかった」と述べている(解説「『爆心地』に残された言葉」)。適切かつここでの問題にも深く関わってくる指摘である。
美術の歴史は様々な「――主義」の盛衰の歴史である。キュビスムもシュルレアリスムも、その画期性ゆえに美術史上の重要な動向として記憶されているが、半面本来普遍的だったはずのその問題提起は、20世紀前半の一時期の動向として固定されてしまった。対極主義も「主義」である限り同じ運命を免れることはできない。前回確認したように、岡本は「美術」よりも「芸術」にこだわる性質であり、であればこそ美術史の中に固定されてしまう対極「主義」からは離脱しなければならなかった。
もちろん、岡本が「正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させる」思考の弁証法まで放棄したわけではなかった。そもそも岡本が戦後間もない時期に縄文土器に「四次元の美」を見出し、これを近代美術と対置してみせたことは、この発想を絵画の制作理論にのみとどめるつもりがなかったことを物語る。対極に魅了され、それを自己の生の全てへと拡張しようとした岡本が、一流派としての「対極主義」から離脱するのは自然な流れであった。「主義」から逸脱したこの論理の構造を、岡本本人に倣ってここでは単に「対極」と呼んでおこう。
対極の論理でソリューションを提案する
随分と道草を食ってしまったが、ここまで書けば岡本太郎の発想とデザイン思考の接点ももはや明らかであろう。岡本は「正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させること」を自らの思考の根幹に据えたが、それは絵画というメディアの限定を超え、あらゆるジャンルへと拡張していく性格を持っていた。その中には当然、デザインも含まれる。これはもともと絵画の制作理論であった「対極主義」をそのままデザインへとスライドしたといった安直な話ではない。繰り返すが、デザインとはクライアントの依頼に応じて様々な角度から検討した最適解を提案する造形活動であるが、岡本は多くの依頼に対して「対極」の論理に従った志向によってソリューションを提案したに違いないのである。
1つだけ例を挙げておこう。1970年の大阪万博に深く関与したことで知られる岡本だが、それと双璧を為す国家的行事であった1964年の東京オリンピックにもデザインを通じて関わっていたことはあまり知られていない。加えて岡本は、他に1972年の札幌オリンピックとミュンヘンオリンピックのデザインにも関わっていたのである。
岡本とオリンピッ クの関係は多岐にわたるが、ここでは3つの大会で共通して関わったメダルのデザインに絞って考えてみよう。メダルといっても、岡本がデザインしたのは参加記念のメダルであったため、表彰式で授与される金銀銅の競技者メダルほどの制約は受けなかったようだ。
東京オリンピックのメダルは、月桂樹を加えて羽ばたく鳥の下で、4人の選手が躍動している姿が描かれている。このデザインは国立屋内総合競技場(代々木体育館)に設置されている陶板レリーフのアイデアを流用したものだという。ちなみに岡本がデザインしたのはメダルの表面だけで、裏面のデザインはグラフィックデザイナーの田中一光が担当した。田中のデザインはシンボルマークと大会名、開催地と年度が刻まれただけのシンプルなもので、岡本の呪術的なデザインとは対照的であり、そのコントラストも狙いの一部と思われる。
札幌オリンピックのメダルではフィギュアスケーターと思われる選手の舞う姿が、ミュンヘンオリンピックのメダルでは月桂樹を背後にゴールのテープを切る選手の姿が描かれている。いずれも岡本らしい躍動感あふれるデザインだ。
オリンピックについてあまり語ることのなかった岡本だが、彼自身は大のスポーツ好きであったため、4年に1度の大運動会であるオリンピックを楽しみにしている面は当然あっただろうし、逆にオリンピック精神に対してうわべを取り繕った胡散臭さを感じたり、万博同様にその国威発揚的な側面を嫌悪した面もあっただろう。これらのメダルのデザインも、そうした「対極」の発想から生まれてきたものに違いない。
デザインに関して語ることの少なかった岡本だが、実用性と芸術性、伝統と産業といった具合に、彼の「対極」はデザインをもその射程に収めていた。そこには、「正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させること」によって優れたデザインを生み出そうとする岡本特有のデザイン思考が潜んでいたのではないだろうか。
参考文献
『スタンフォード式デザイン思考』ジャスパー・ウ 著、見崎 大悟 監修(インプレス 2019年)
『岡本太郎の宇宙 対極と爆発』岡本太郎 著、山下裕二 椹木野衣 平野暁臣 編(ちくま学芸文庫 2011年)
『日本再発見――芸術風土記』岡本太郎 著(角川ソフィア文庫 2015年)