最先端だけが歴史を紡ぐのか?
国際賞をとった著名な建築家の「作品」がテレビで紹介されることがある。現代建築史を多少かじったものとしては、ああこれがあの偉い先生の建物か、と感慨深く観ることがあるが、たいてい横で見ている嫁さんの評は思いの外険しい。「この大きなガラス、どうやって拭くのかしら」「こんな変な形だと、掃除しにくそう」「きっと隅に埃がたまっている」と散々である。生来きれい好きとはいえ、世界的建造物に対する彼女の批評の厳しさは新鮮な驚きである。
だがよくよく考えると、著名建造物についての一般人の評価には、こうした厳しいものも少なくない。授業で欠陥デザインについて扱った時、複数の学生があげた例は、震災時に窓が開かず研究者が困ったという、著名建築家による某大学の有名ホールである。過去をさかのぼれば、評論家の江藤淳は、かつて70年代大阪万博の際に丹下建三設計の空気構造の屋根の雨漏りに対して「雨露すらしのぐことができずに、いったい何の前衛建築であろうか」と厳しく論難している。また『全地球カタログ』の編集で有名なブランド(S. Brand)による『建物はいかに学ぶか』という、増改築を含めた建築物の発展と変遷についての独創的な本があるが、学ぶのは建物そのものであるという意味のタイトルである。この本の中で、彼もまた一般人と建築家の間の意識が最も食い違うのは雨漏り問題だと奇しくも指摘しているのである。
もちろん設計と施行は別だという言い訳もありうるが、論じたいのはその点ではない。掃除といい雨漏りの補修といい、建築についてのこうした視点は、実は近年のテクノロジー論のある種の新動向と深く関与している。科学技術社会学(STS)は、科学技術と社会の絡みあいを研究する分野として近年急速に発展してきたが、当初は世間を騒がせる社会問題化した科学技術に注目する傾向が強かった。その典型が遺伝子組み換え食物(GMO)やナノテクノロジー等の勃興によって引き起こされた騒動の分析である。先端科学技術によって、社会にどういう影響が現れるのかわからないという不安が、こうした騒動の裏にあり、STSはそこに着目したのである。
先端科学技術に対する関心は、何もSTSに限らない。ある種の定番化した歴史記述では、新興技術が社会変化の主要な推進力になるという暗黙の視点から、先端技術中心の歴史になっているケースも少なくない。例えばテクノロジーの歴史を、ある技術が別の先端技術に取って代わられる過程の繰り返しとして描くといった慣習がその例である。近年のデジタル技術についての歴史的回顧でも、こういう最先端の連鎖という語り口はよくみられるパターンである。
興味深いことに、こうした動向に対して近年修正の動きが目立ってきたのも事実である。それは最先端で変化の激しい部分のみならず、より日常的で、あまり人の目を引かない科学技術がどのように機能しているのか、という点についての関心の高まりを象徴している。掃除や雨漏り(補修)の話は、まさにそうした新たな関心を象徴するため言及にしたものだが、これらを広くは「メンテナンス問題一般」とでもいうことができる。
使用中のテクノロジーにも分析が必要
こうした視点の必要性を技術史の立場から強く主張したのが、英国歴史家のエジャートン(D. Edgerton)である。彼の『古きものの衝撃』という変わったタイトルの本は、従来の技術史でよくあるやり方の、変化する先端技術の連鎖として歴史を記述する方法に対して異議を唱えたものである。彼はこうした先端技術を”technology-in-innovation”(革新中のテクノロジー)と呼んでいる。これに対して彼が新たに主張するのは、先端ではないが、広くそして長く使われている技術に注目した歴史である。エジャートンはこちらの方を”technology-in-use”(使用中のテクノロジー)と呼んでいる。その中には牛車、コンドーム、さらには鉄道まで、実に多様な対象が含まれる。こちらのタイプのテクノロジーについての歴史記述が必要だと主張しているのである。
実際、STSの分野では、「テクノロジーの社会的構築論」と呼ばれる議論が優勢だが、ここでよく取り上げられる事例の一つに、自転車の初期開発史があげられる。自転車は今では世界中どこでもだいたい似たような形で統一されているが、その開発初期は足で地面 を蹴って走らせるものや、前輪がやたら大きいものなど、実に多様な形態があった。それがどういう過程で今ある形に収斂したかという過程を、開発者やユーザー集団との社会的絡み合いで分析したのがこの事例である。
だがこの有名な研究は、自転車の形態が今の形に収斂する時点で分析が終わるため、あたかも歴史はそこで終わってしまったようにもみえる。しかしエジャートンは、まさにその後の自転車の長い歴史についての議論が欠落している、と従来の研究を批判しているのである。使用中のテクノロジーは、当然革新的テクノロジーを研究するのとは異なる視点が必要だと彼は指摘する。普及の問題、ユーザーの問題、そして維持、補修の問題などである。他方従来の技術史では発明、開発の初期は強調されるが、その後の長い使用期間については、ほとんど自明のこととして扱われ、あまり分析されてこなかったというのは、まさにこの自転車についての従来の議論が象徴しているのである。
不可視なものに光をあてる
STSの立場から、似たような観点を多少異なる角度から指摘したのは、スター(S.L. Star)らのいう「インフラ」研究である。彼女の言うインフラとは、データベース等のいわゆる知識インフラを念頭においているが、インフラ一般もその射程に含まれている。面白いのは、この研究を始めるにあたって、スターが「これから提唱するのは退屈なものの研究である」と冗談か本当かわからないような表現をしている点である。確かに、社会を脅かしかねない遺伝子組み替え 技術やナノテクノロジー、あるいは近年のAI技術の急速な発展に比べれば、データベースや、あるいはガス管や送電線の技術といった、一般的なインフラ技術はいかにも地味に見えて、学問的にも政治的にもあまりホットな話題とは言い難い。特にインフラ技術が順調に機能し、誰もあまり気にしない場合、それをわざわざ研究するというのはいかにも退屈そうに聞こえる。
スターらはインフラが順調に機能している場合、それを不可視(invisible)と呼び、それが可視化(visible)されるのは、故障などで機能しなくなる場合だけだと言う。実際、水道管もトンネルも、あるいはデータベースも、それらが話題になるのは故障したり、果ては機能停止に陥ったりするような場合で、それが安定して機能しているときに社会一般の問題として浮上することはあまりない。
その意味では、インフラというのはある意味「安全」と似ている面がある。つまりそれが問題視されるのは、実際に安全が脅かされ、人が脅威を感じるような場合なのである。安全を経営学的な観点から「ダイナミックな無風状態」と論じたのは経営学者のワイク(K.Weick)だが、わざわざ「ダイナミック」といった形容詞をつけたのは、何も起きていないようにみえる無風状態としての安全の裏では、それを守るための水面下の努力が継続しているという事態を示している。ワイクらが特に着目したのは、テクノロジーによって引き起こされるリスクだが、高い安全性を保って行われている活動、例えば航空管制、航空母艦に おける戦闘機の離発着、あるいは事故率が最も低い原子力発電所のようなものがその具体的研究象に含まれる。こうした分野における安全性維持のためのさまざまな努力とそれについての諸研究が、ワイクの議論の根底にある。そうした組織的努力の結果として、安全運行が保たれるのである。
これほど劇的な例というわけではないが、スターたちのいうインフラもある意味さまざまな努力の結果、順調な運行が維持されている。この意味では、これら異なる分野における似たような関心はいわば同一線上にあるといえる。実際、大きな事故や初期建設上の騒ぎなどで社会的な注目を浴びる段階とは違い、技術の安定運行時に、それに社会的に注目するというのは、ある種の努力が必要である。別の研究者はこうした努力のことを「インフラ論的転倒」(infrastructural inversion)と名付けているが、これは通常は「見えない」インフラを見えるようにする意図的な努力のことである。ゲシュタルト心理学