シャネルにみる「様式」とは何か
和室の作りについて述べる前に、まず「様式」や「スタイル」と呼ばれるものについて私の考え方を説明しておく。その典型的な例がご存じのシャネルがした仕事である。シャネルは第一次世界大戦中に働かなければならなくなった女性のために、それまでのウェストを締めつけるドレスではなく、男性のスポーツウェアや下着などに使われていたジャージー生地を用いて「ジャージー・ドレス」を生み出した。それがさらに進み、コートやスーツを女性の体型に合わせて仕立直したいわゆるシャネル・スーツが誕生したのだ。これらは全て外で働く女性のために作りだされたスタイルで、これが現代までの女性の服装のもとになっている。
「様式」および「スタイル」というのはこのように、あるときに誰かが新しい未来をイメージしたときに生み出される。シャネルはエドワード朝の時代に女性がさっそうと働く社会をイメージしたのだ。
シャネルのこのイメージは新しいファッションスタイルを生み出し、それがその後100年以上にわたり女性のファッションスタイルとして広がっていった。様式とはこのようなものである。
スタイルというのは集団で一定の形式・品質をもって、ある一定期間に継続的に行われるものを指し、フォルムやオーダーとは異なる概念である。一般にスタイルというのは、まずそれをつくっている要素がある。例えば、ジャージー生地あるいは男性と同じようなカッティングなどだ。それらの「要素」をどう組み合わせるかは「形式関係」という。それらは目に見えるものではあるが、そこには「颯爽と働きつつもかわいらしくあってほしい」というシャネルの思いのようなものが「品質」として宿り、それが見る人に伝わる。その「品質」が共有化されないとスタイルというものは発生しえない。これはヨーロッパの美術史の中で長い時間をかけてつくられてきたスタイルというものの捉え方である。
私はこれを日本の和室のなかにも見出すことができると考えている。
南宋の時代のハイパーインフレで「個人」が力を持ち始めた
シャネル・スーツが生まれた発端が第一次世界大戦だったように、和室が生まれたのにも理由がある。
11世紀から12世紀の中国の宋では、貨幣の大量鋳造と “会子”という名前の紙幣が生み出されたことにより、南宋の時代にはハイパーインフレが起きた。資本主義の原型のようなものだが、これは東アジア一帯にいろいろなものの価格差を引き起こした。その価格差を利用し、貿易で儲けようとした人たちの一団の中に武士がいる。例えば平清盛は日宋貿 易で巨万の富を得て、それを自分の政治的・武力的背景にしている。宋が大量につくり出した貨幣を輸入して、それを日本の基準貨幣にし、利潤を得たのだ。
このような時代には、能力のある個人は非常に大きな力や富を手に入れることができた。実はこれが、鎌倉時代を生み出したのである。これが芸術に表現されると、運慶・快慶の慶派のリアリズムといったスタイルが出てくる。
資本主義が伝わるのに時間がかかったヨーロッパでは、後にメディチ家のような銀行資本家が生まれ、ルネッサンスが始まる。そこで発見されたものは共通していて、人間個人の能力の発見である。
武士たちにとって重要だったコミュニケーションのための空間
そういう時代に発展した「武士」の暮らしは『蒙古襲来絵詞』などに見ることができる。恩賞奉行であった安達泰盛のところに訴えに行った竹崎季長(たけざきすえなが)の姿を描いた場面を見ると、武士はいろいろな人たちと交流することによって自分の力を蓄えていったことがわかる。つまりコミュニケーションの空間は武士にとって非常に重要だった。
1268年ごろに、鎌倉でつくられた『名語記』という辞書がある。長い間金沢文庫の中に所蔵されていたためあまり知られていないが、北条実時に献呈されたこの辞書を見ると、当時の鎌倉で使われていた言葉がよくわかる。なかには今ではわからなくなった言葉も少なくなく、その中には“テヰ(デイ)”というものがある。この辞書は問答形式で語源を問う作りになっており、「家ノ客殿ヲテヰ何」(家の客殿をデイとはいかん)とあるところを見ると、「答 テヰハ出居ナリ」と書いてある。つまり武士社会でいうカタカナの“テヰ”は公家社会で言うところの漢字の“出居”だと言っているのだ。客殿とは客室あるいは接客用の建物で、安達泰盛邸で竹崎季長が泰盛に対面している部屋こそが“テヰ(デイ)”である。漢字ではなくカタカナが用いられているのは、鎌倉の武士は漢字が読めない人が多かったためだろう。
ごく簡単に言えば、公家住宅の隅のほうにあった応接室の出居が、武家住宅では大きくなって建物の中心に構えられている。そして実は、武家住宅で使っていた客室のデイが今の和室、座敷というものになる。
飲めや歌えやと騒ぐための「座敷」が誕生
北条重時という鎌倉時代の連署(北条義時の三男)が1240年ごろに書いた『六波羅殿御家訓』には“座席” という言葉が何度も出てくる。酒宴の座席、遊宴の座席、入れ乱れたる座席。とにかくお客さんが来て、一緒に飲み食いして、飲めや歌えやと騒ぐところが座席なのだ。1カ所だけ“座敷”という言葉が出てくるが、これは座に敷くものの並べ方のことを“座敷”と言っていたようだ。
北条重時は、その約20年後に出家し、亡くなる前に自分の子どもたちのことを案じて「御消息」という遺言状のようなものを書く。それを見てみると、例えば10条には「お酌を取って三歩寄って、膝をついて(お酒を注ぎ)、それから三歩退いて、膝をついてかしこまるべし、せばき座敷、また女房の御前などにては心得べし」といったことが書いてある。要は、三歩寄っていってお酒を注いだら、三歩退いて、蹲踞(そんきょ)してかしこまっているべきで、とくに狭い座敷の場合や、女房--身分の高い女性の御前などにては、この作法を心得ておくべきだ、と記しているのだ。
また81条では、「酒の座敷にては、はるかの末座までも」ちゃんと目をかけて、言葉をかけて、みんなに仲良く、平等に接しなさいよといったことが書いてある。前は酒宴の“座席”と書いてあったのが、ここでは“座敷”に変わっている。「狭い座敷」とあるから、これは明らかに空間のことだ。
さらに決定的なのは、9条のところに「長押(なげし)の面(おもて)には竹釘打つべからず。畳のへり踏むべからず。さえ(敷居のこと)の上に立たず。ゆるり(囲炉裏のこと)の縁、越ゆべからず。(そういうことは)万人にも、世にも憚るべし」とマナーを教えていることである。つまり、畳を敷いた部屋があり、その部屋には敷居があり襖が立っていて、そして柱同士は長押でつながれている部屋があるということだ。これは今の和室のつくりと同じである。座敷という空間が、和室の原型ができたのだ。
身分に関係なく、勝負に負けた者は、箸なしでご馳走を食べた
上層の武家住宅にあった座敷の広さは、三間の三間で、九間。それは18畳、約20畳の大きさの部屋である。畳は部屋の周囲にだけ敷いてあり、これは“追い回し敷き”という。
このような部屋で行われていたことは、北条政村という翌年から執権になる人(このときは連署)が書いた『吾妻鏡』などを見るとわかる。弘長3年(1263年)2月8日から10日まで3日かけて開催された千首和歌会の事件を記したものだ。
このとき政村に声をかけられて歌の得意な御家人ら17名が集まった。初日には一人50首から100首を詠み、それを紙に記録する。2日目には、将軍の和歌の師がその歌を評価し、まるで小学校の宿題のように合格の歌に丸をつけていく。その丸を“合点(がってん)”という。点を合わせる、点を打つという意味だが、それが今の「ガッテン」になっている。
3日目には成績発表がある。1位は歌人として有名な人が獲ったが、2位には埼玉の田舎から出てきた若い田舎侍がついた。北条政村は3位だった。そしてこの後は成績順に並ばなくてはならない。しかし3位が連署で2位がどこの馬の骨とも知れぬ若造ではまずかろうということで、2人が対等の席になるよう配置をしたら、それを見た歌の師が「ルール違反は情けない」と言い、政村はすぐさま自分の席を立って、若い侍の下座についた。若い侍 は恐縮して逃げ出してしまったそうだが、政村は家来に命じて連れ戻させて、そして自分の上座に座らせて、そして2位の賞品を受け取らせたという。
このエピソードからわかるのは、武士たちの願望は、能力に応じて人の扱いや地位が決められる世界であってほしいということだ。だからこそ、たとえ社会的な身分が自分のほうが高かろうが、歌の勝負で負けた以上、自分が下座に座るべきだということを政村は態度で示した。それが武家社会を引っ張っていく指導者のとるべき態度なのだ。
ちなみにこの歌会では、1位の人は虎の皮の上に載せられた山のような景品を虎の皮ごともらい、2番の田舎侍は熊の皮の上に置かれた豪華な景品を授与された。3番の政村はなめし革の上に置かれた景品をもらっている。
一方、何十首もつくったのに合点が一つもない「無点の輩(むてんのともがら)」は縁側に座らされた。3日目の講評が終わると打ち上げの宴会が開かれるわけだが、縁側に座らされた者の箸は取り下げられてしまうので、箸なしで御馳走を食べた。それを見ながら、みんなで大笑いしたらしい。無点な者たちも、そういう罰ゲームを面白がって笑っていたようだ。
だから武士社会には、日常的には身分制 が残っていたが、優れた者は評価され、だめなものは笑いの種にされるということが非常に肯定的にとらえていた。最後のところは「満座が大笑いした」と書かれているくらい、エネルギッシュな交流が図られていたのだ。
連歌、闘茶、双六、博打……武士たちが勝負に夢中になった理由
この当時の座敷では和歌の会のほかにも、連歌、闘茶、双六、博打などが開かれていた。なぜ武士たちがそのようなものに夢中だったかというと、これは『平政連諫草』のなかにヒントが隠されている。これは幕府の奉行になった中原政連という人が北条貞時という鎌倉時代後期の執権にあてた諫め状で、「連日の酒宴を早くやめてくれ」というようなことが書いてある。体を壊すから酒宴を休ませてというのである。「或いは勝負の事といい、或いは等巡の役といい、かれこれ用捨しがたく(選べなくて)、皆ともに召し加えられば、何の時が休む時あるべき」。つまり、武士たちは持ち回りで飲むほか、和歌の会や闘茶、連歌、博打、双六などの勝負事のことを頻繁にやって、その結果が休み無しの連日の宴会になっていた。異常に思える光景であるが、そのエネルギーはおそらく勝負の結果に応じて席を変えるということを目的としていた。古い身分制を振り捨てて新しく対等な人間関係を築くことを強く望んでいて、そのためにお金も体力も、命削ってまで勝負事をやっていたのだ。
遊びや酒宴の中で平等な人間関係というものを体験する。そして、人間同士の平等性というものを獲得する、その感覚を 獲得していくために、鎌倉時代から室町にかけて、闘茶、連歌は日本中で大流行する。そして遊びの場は「貴賤同座」となり、尊い人も卑しい人も座を同じくした。平等に人々が向かい合い、平等な人間関係を体験する場所としてつくられたのが座敷なのだと私は考えている。
武士たちが抱いた「貴賤同座」への強い思い
遊びを通してそれまでの秩序や習慣を破壊し、そこから新しい空間を創造していく。そのようにして発生したのが座敷である。そしてこれは書院造という様式の建物の中で行われた。
民家を除いた日本の上層住宅には寝殿造と書院造の2つの様式がある。では寝殿造とは何なのか、書院造とはどう異なるのか。
寝殿造は中心に一段高い母屋(もや)という空間があり、基本は天井がなくて中央が一番高く作られている。周りに庇という空間があって、庇のほうに行くと屋根がどんどん下がってくる。空間的にも中心と周辺というのがはっきりした空間が寝殿造だ。
一方、書院造は水平な天井が張られて、床も一面同じ畳が敷かれ、車座になって座れるように正方形の床の間になっている。武士たちは対等の関係で契りを結ぶときに傘(からかさ)連判状といって車座の署名するが、そうした関係が反映される空間になっているのだ。この署名の形式はのちの江戸時代に一揆を起こす人たちが同じ形を用いる。車座に向かい合う対等な人間関係を実現するために座敷は正方形につくられた。
とはいえ、書院造の要素はもともと寝殿造の中にすべてあった。しかし寝殿造の空間は、場所によって天井の高さや床の高さが 異なるから、身分に応じて居る場所が決まってしまう。そのような世界において武士がどう扱われたかというと、貴族の家では武士は建物の上にあげてもらえない。地下人(じげにん)と呼ばれ、地面にむしろや皮を敷いて座らされた。それだけ身分的に差別されていた武士だからこそ、自分たちも建物の上にあがりたい、貴族と同じ部屋で対等な存在として話をしたい、そういう願望が平安時代の武士の間には連綿として続いてきた。だからこそ貴賤同座できる、だれでも身分の区別なく入れて、そして入った人間は平等な関係になれるという、そういう空間を必要としたのだ。その思いが鎌倉時代に座敷を生み出した。
数寄屋造りが権威から座敷を取り戻す
その後、座敷飾りなどができ「ばさら大名」たちがいろいろなものを飾って、座敷を自分の表現の場に変えていく。座敷は一時的に格式化するのだ。さらに足利義満や足利義教はそれを自分の権威の表現にしてしまい座敷の権威化が始まるわけだが、それに対応して出てきたのが茶室である。権威化した座敷に代わって、新しい平等空間として茶室が登場するのだ。そしてさらに、その茶室が生み出したさまざまなデザインを今度は書院造のほうが取り入れ、それが数寄屋風の座敷となる。数奇屋は平等をもう一回取り戻そうとしたのだ。
今の料亭や和風旅館で使われている意匠のほとんどは、平等を取り戻そうとした数奇屋の方である。意識的にか無意識にかはわからないが、日本人はどうやら座敷の本来の効用に気づいているらしい。