脱炭素を進めているのは誰か
脱炭素を進めていくということは、すでに政治的には大筋で合意がなされている。しかし最近では国と国との間の約束ごとよりも、企業の活動に対しての世間の関心が高まっている。例えば、最近アメリカの石油会社・エクソンモービルがCO2の削減計画を発表したが、これは政府から要請されたわけではなく、むしろ株主からの要望で行ったものだ。
もはや脱炭素は政府が主導して企業に削減をお願いしたり命令したりすることで推進されるものではなくなってきている。例えば、環境団体が株主となって企業の行動を直接変えたり、企業を裁判で訴えたりすることで動きがあることもある。もちろん未だ政府は非常に重要なプレーヤーではあるが、その存在感は以前に比べれば徐々に小さくなっている。
排出の責任は誰にある?
大量のCO2は石油や石炭を掘って売り、それを誰かが燃やすという形で発生している。そうすると、このCO2排出の責任者は掘る人なのか、売った人なのか、燃やす人なのか、その先でそのエネルギーを使う人なのかという問題が浮かび上がる。
従来は「燃やした人が悪い(=責任がある)」、あるいは「エネルギーを使った人が悪い」という考え方で整理されていたが 、最近は「掘る人が悪い」、「石油等を売る人が悪い」、「エネルギーを使う機械を売った人が悪い」といった主張が増えてきている。燃料の燃焼などによるCO2排出をスコープ1、電気や蒸気などのエネルギーの使用による間接排出をスコープ2、燃料の販売やエネルギーを使う装置の販売などその他関連する間接排出をすべてひっくるめてスコープ3というが、最近ではそのスコープ3も責任を全うすべきだという論調になってきたのだ。
面白いのが、実は産油国も脱炭素宣言していることだ。サウジアラビアやUAE、マレーシアといった産油国は2021年に次々と脱炭素宣言をした。しかし彼らのいう脱炭素というのは、掘った石油を燃やすときに出るCO2に対するものではなく、主に油田を掘っているときの経済活動に関するものである。「掘削作業をするときに出るCO2はゼロにします」(つまりスコープ1と2)というのもので、彼らの主張では、輸出した石油がその先でCO2を排出すること(スコープ3)には自分たちは関知しない。当面石油は世界中で使われ続けるので、自国での脱炭素は大きな経済的損失にはならないと考えているのである。
ちなみに石油などの地下資源の所有権は、近代的な枠組みでは、ほとんどすべての国で国家が資源を保有し、民間事業者は鉱業権を国から得て掘っているという構図だ。ただ、例外的にアメリカ(とカナダ)では、歴史的経緯から地下資源はその上の土地の所有者のものとされている。私有権があるのだ。
やや話がそれるが、世界でアメリカだけでシェール革命が起きた理由の一つは、資源の所有権が個人にあるからだ。彼らは自分で掘らなくても、油田の上の土地の所有者であるだけで儲けることができる。石油会社に油田を掘らせておけば、その土地の権限を持っている人にはロイヤリティがどんどん入ってくるので、好きなだけ掘ってくれということになる。毎週何もせずとも1億円が入ってくるような富豪がアメリカ中に生まれたのである。普通は自分の土地の地下に穴を掘られたらかなり抵抗するはずだが、それだけの収入があるなら大抵の人は納得する。だからこそ、一気にブームが広がった。一方で油田の隣に住んでいるような人は権限がないから掘削に反対するということも起きた。
脱炭素にまつわる二重のレトリック
脱炭素の話に戻そう。今、脱炭素が進められているのは、人間のせいで自然環境に大きな変化が起こり、それが脅威となると考えられているからだ。そしてそれに関して人類には「責任」があると考えられている(詳しくは前回の記事を参照)。
守るべき対象が何かという点には、個人の考え方やや立場によって違 いがある。影響を受ける動物がかわいそうとか、水没する地域の人たちに申し訳ないとか、その対象はばらつきがあるのだ。なかには「今の人間の生活は持続可能ではない。このような暮らしをそのまま続けていくと自分たちの生活も早晩回らなくなるから早く見直すべきだ」といった、自分の不利益を回避するために生活を見直すべきだという考え方もある。ただしその場合はあまり「責任」によって脱炭素を推進しているとはいえない。どちらかといえば「自己都合」ではあるが、一応「自然に関する責任」の範疇には入るだろう。
脱炭素を進めるうえでは「自然に関する責任」が駆動力とはなっているが、実際には市井の人々には「このままでは地球が危ない」といったように、脱炭素のためのアクションをとりたくなるような扇情的な表現が用いられている。
つまりここには二重のレトリックが存在していて、国際交渉上は感情にはあまり訴えず「気候変動は人権問題なのだ」という物言いがなされる一方、一般の人に対しては「ホッキョクグマがかわいそうだ」とか「地球が危ない」とか、「自然に対する責任」に近い表現がなされている。
環境問題と気候変動問題は異なる
実は、脱炭素にはレトリックにからむ問題が複数存在する。
例えば、環境問題と気候変動問題は同じようでいて少し違いがある。気候変動といったときには純粋に温暖化問題のことを指すことが多いが、環境問題といったときは、金属資源問題や公害やごみ処理の課題などを含む。
環境問題の目的が「自然を守る」ことなのであれば、その「自然」には気候以外のものも含まれる ため、そこでは複数の問題が包摂されるのだ。
さらに「自然の搾取はよくない」という言い方は実はとても複雑で、そのような台詞を言う人が推進しがちな再生可能エネルギーは、実は最も直接的に自然を搾取している。
だからそのあたりはより定義を厳密にしていかなければ、理想と現実が乖離する。「自然の搾取はよくない」と言ってしまえば、再エネ開発できなくなってしまうのだ。それは気候変動問題に対処しようとしている人たちにとっては都合がよくない考え方となる。
最近では脱炭素を語るときには“自然”とか“環境”といった言葉ではなく、純粋に“Climate Justice”や“気候変動”という言葉が用いられるようになり「それは人権問題なのだ」と説明されるようになった。そうでなければ、気候変動問題は従来の環境哲学の枠組みで対応ができない。
自然に関する問題は、生物多様性なども含めて本当にさまざまな課題が存在する。だから目指す方向はざっくり同じでも用いられるレトリックが変わることで不都合が生じることがあるのだ。
脱炭素原理主義で起こっていること
現在、自然に関する問題を語るときに出てくる言葉には「エコ」、「気候変動」、「環境問題」、「ESG」、「SDGs」、といった表現がある。それらは大まかには方向は変わらないが、実はこのなかにはいくつものジレンマがある。例えば「気候変動」「脱炭素化」を中心に考えると「ごみ問題」と相性が悪いことがある。サーキュラエコノミーのためにはリサイクルが推進されるが、なかにはリサイクルをすることで莫大なエネルギーを使ってしまう物もある。現状では比較的リサイクルしやすいものを選んでリサイクルしているが、もしサーキュラエコノミーを強引に進めれば脱炭素とは逆行することもあり得る。
ほかにも、電気自動車や再生可能エネルギーは、従来のガソリン車や火力発電所と比べると5倍から10倍くらいの金属資源を用いる。そうすると、脱炭素すればするほど消費する金属資源の量は増えるので、金属資源の観点で環境のことを考えている人からすると、脱炭素はあまりエコではないということもいえてしまう。
しかし今はいわば脱炭素原理主義のような状態になっていて、それが「気候正義」の名のもとに正当化されている。サーキュラーエコノミーやリサイクル、金属資源の問題といった問題よりも、脱炭素は優先されているのだ。
さらに、脱炭素は気候変動で災害が起きることを防ぐために進められている面があるのに、脱炭素を推進するほど従来想定されていた災害対策が格下げされるという事態も起きている。今まさに干ばつが起きているところよりも、これから気候変動で干ばつが起きるところのほうがお金が回ってくるので、現在すでに問題が起きているところは後回しになってしまうことがあり、それが「正 義」とされているのだ。
「気候正義」とは何か
今、「脱炭素」はそれくらい世界で大きな正義になっている。「地球全体に関わる問題」という誰もがなにか否定しがたいナラティブがあるためだ。「人類の責任」などといわれて突き返せる人は少数派だろう。
とはいえ、ここでいう「正義」は日本語のイメージとはおそらく異なる。Climate JusticeのJusticeは「悪を成敗する正義」という意味ではなく、単に「Justさせる」「ぴったり合わせる」くらいのニュアンスが近い。「不正義でなくす」くらいのイメージだ。「気候正義」という言葉のイメージが持つような押し付けがましさはあまり感じなくてもいい。おそらく日本人が「気候正義」にぴんとこないのはこの言葉のイメージの問題があると思う。
2021年11月のCOP 26ではおそらく過去最高回数の「Climate Justice」という単語が発せられたが、日本の報道ではほとんど使われなかった。「気候正義こそが重要なんだ」という言葉が、あまり視聴者に響かないことをメディアがわかっているのだろう。それは日本人が単に“正義”という単語のニュアンスに上手に反応できないだけでなく、そもそも温暖化問題を正義の問題だというふうに捉えること自体にピンときていないからだ。このあたりにも日本人と特にヨーロッパ諸国の人々との考えにはズレが生じている。
ここまでの話で、読者は私が脱炭素に反対している立場の人間かと思われたかもしれないがそうではない。道徳的にする話と分析的にする話は別物である。私が脱炭素に反対しない理由については、さらに追って説明していく。(次回、「脱炭素が禍いの種になるとき」に続く))