大場紀章

大場紀章

満開のホッキョクヒナゲシ。樹木限界以北と呼ばれる地方にも、このような維管束植物は生育する。温暖化の影響で北極圏の生態系は大きく変わりつつあるという。

脱炭素の思想
人類は地球に責任を負えるのか

「脱炭素」はこれからの社会や経済を考えていくために重要なファクターになることは間違いない。しかし、「2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする」という一見ラディカルともとれる発想は一体どこから生まれてきたのだろうか。すでに既定路線として進められている「脱炭素」には誰のどのような意図が隠されているのだろう。Modern Timesでは2022年の始まりにエネルギーアナリストの大場紀章に公開インタビューをし、疑問をぶつけてみた。内容の一部を編集してお届けする。

Updated by Noriaki Oba on January, 31, 2022, 9:00 am JST

脱炭素で重視されるのは「人為的」かどうか

まずは脱炭素についてまずは定義の確認をしておこう。環境省によれば脱炭素とは以下のことを指す。

『政府は2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにするカーボンニュートラルを目指すことを宣言しました。「排出を全体としてゼロ」というのは二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの「排出量」から、植林、森林管理による「吸収量」を差し引いて合計を実質的にゼロにすることを意味しています。』(カーボンニュートラルとは―脱炭素ポータル 環境省)

ここで重要なのは、脱炭素は人為的なCO2の削減しか対象にしないということである。例えば大災害が起きて莫大な量のCO2が発生してもそれはカウントしない。逆に何か原因がわからないままCO2が減ったとしてもそれも数値としてはなかったことになる。とはいえ、大本の目的を考えればそれは人類が減らすべき量が減るので喜ばしいことではある。

脱炭素の目標値は国によって異なり、日本の場合は2013年と比較して2030年に46%減(さらに高い目標としては50%減)、2050年に実質的に100%減をすることを目標としている。この数字は冒頭で確認したように、排出を減らすのみならず、人為的に森林などを増やしてCO2を吸収させることができればそれも「減った」とカウントする。

しかし「自然に増えた森」が吸収した量についてはカウントされない。あくまでも「脱炭素をした」といえるのは人がわざわざ手を入れて増やした森、あるいは努力して減らさなかった緑の働きのみによるものなのだ。

馬鹿げているようだが「伐採をやめた地域」はカウントの対象となる可能性がある。例えば、年率5%伐採される森があるとすると、10年間で減る森の面積を計算することができる。だからその伐採をやめれば、保護される面積分を「増えた分の森」とみなし「人為的にCO2 を固定した」と評価することができるのだ。

温暖化の原因、四段活用

なぜここまで「人為的か人為的でないか」で線引きがされるかというと、そもそも気候変動問題とは「人為的か否か」こそが最も重要だからだ。

気候変動問題の科学論文をレビューしているIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)は2001年の報告書では「人間の活動によって温暖化が起きるという可能性が高い」という表現をしていたが、2007年には「非常に高い」となり、2013年には「極めて高い」、そして2021年8月の第6次報告書では「疑う余地がない」と記した。「高い」「非常に高い」「極めて高い」「疑う余地がない」の四段活用の最終形態で報告したのである。
この一文は常に報告書の最初に記載される。報道されるときも、まずここから報じられるほど、この一文は重視される。つまり、「温暖化は人間の手によるものであるかどうか」が極めて重要なポイントだとみなされているのだ。だからこそ「温暖化対策は人類の責任だ」というロジックが生まれ、「人の手で減らさなくてはならない」と言われるのである。

そしてそのような事態になった以上はCO2 を実際に減らすためアクションが必要で、そのためには互いの努力を評価しなければならない。だから人為的に減った分を数字としてカウントし「よくやりましたね」と見える化する必要があるのだ。

つまるところ脱炭素は、人新世によって出来上がった今の状態をそれ以前に戻すことを目的とした考え方なのである。人新世(Anthropocene)とは、更新世(Pleistocene)や完新世(Holocene)といった地質時代を指す用語から派生したもので、人類が地球の地質を変えた時代を指す。Anthropogenicというと単に「人によるもの」という意味だが、Anthropocentricというと人間中心主義を指す言葉となる。

温暖化が自然発生したものであれば対応したのか

さらに、人の手で削減することにこだわるのにはもう一つ大きな理由がある。それは脱炭素で解決しなければならない最大の問題が人権に関わることだからである。

赤ちゃんを抱いた女性たち
ケニア・モンバサで2007年撮影。バスの近くに立つ人々。穏やかな人たちが多い。

現在の科学的知見を用いたシミュレーションによると、温暖化は海水面の上昇や洪水、干ばつなどの異常気象の増加などを引き起こす。被害を被るのは比較的経済的に恵まれない発展途上国が多く、そうした国々の人々の生活が脅かされないようにすることは、先に化石燃料を消費してその恩恵を享受してきた先進国の人々の責任であり、これが人権問題につながると考えられているのだ。

しかし仮に温暖化が自然現象によるものだったら、我々はどう反応しただろうか。少し思考実験をしてみよう。
もともと地球は多様な変化を経て今の状態へとたどり着いており、人類が出現する前には大規模な氷河期のほか、全球凍結といって地球が全部凍りついてしまったこともあると考えられている。隕石衝突などによる大規模な気候変動も繰り返された。つまり人の手によらない変化は昔から起きているのである。

もしそのように人の手ではない理由で気候変動が起きたとき、そしてそれが将来も続くと予想されたとき、人類はそれを止めようとするだろうか。
単純に自然現象として地球が温暖化したとしても水没する地域は発生する。しかしこの場合は誰に怒りをぶつけていいのかわからない。地球が勝手に水没地域を作っているのだからどうもしようがないのだ。その場合は、「そこに住んでいた人が運が悪かった」ということで、内陸部に移住したり、周りの国はせいぜいそれを支援したりするというアクションに留まるのではないだろうか。

このように考えると温暖化が人為的なものかどうかというのはリアクションに大きな違いを生んでいることがわかる。人為だからこそ、発生した不都合に対して責任が生じる。だからこそ「何とかしろ」というロジックが成立するが、もし自然現象だったら起きた結果が同じであってもそれを受け入れてそれに対応した生き方を選択するのではないか。

もちろん、自然現象であっても無理やりをそれを阻止するという考え方もできなくはない。しかしそこには責任がないため、人類が結託して邁進するのかというと、あまり可能性は高くないように思える。

地球に対する責任、地球に関する責任

そうすると脱炭素をドライブさせているポイントは「責任」だと考えられる。これはそもそも国際社会が交渉のテーブルにつきはじめた90年代から言われていることだが、温暖化は人類共通の責任であるとされている。ただし先行して排出してきた先進国と後から排出量を増やしてきた新興国では立場が違うので、「共通だが差異ある責任」という言葉が用いられる。

ではこの責任とは「誰に対する」責任なのか。一部では「自然に対する責任」という言い方をする人もいる。それは自然をある種人格化した感覚を持っているということである。「自然さん、ごめんなさい」「地球さん、すみませんでした」と罪悪感を覚えて行動をする人たちの考え方だ。しかしこのような考えは昨今あまり一般的ではない。

現在、多数派なのは「自然に関する」責任を負っていると考える人たちだ。自然に「対する」責任と自然に「関する」責任は微妙に違っていて、後者こそが先般記述したような人権問題に絡む。つまり温暖化によって家が水没してしまう地域の人たちや干ばつで災害が増えるような地域の人たちをなんとかする責任があるという考えに基づいているのだ。整理すると、自然に関して人類は人類の一部の特に被害の大きいと考えられる国の人たちに対して責任を持っているという考え方になる。

だから自然に「対する」で対策をしているか、自然に「関する」で考えているかで話が噛み合わないことがある。CO2を削減するという結論においては合意するわけだが、自然に「対する」という人々からしてみれば心情が絡むためそれを言い換えることはしにくい。さらには「関する」という考え方はあまりにも人間中心主義によりすぎているため不快感を感じるという人もいる。

しかし政治的には「対する」にしてしまうと科学的な表現が難しくなるため、基本的にはオフィシャルな文章では「関する」という立場が中心だ。

国による感覚の違い

エネルギーの専門家として国内外の人々と話していて感じるのは、ヨーロッパの人たちの「地球を我々がどうすべきか」という感覚と、日本人の環境問題に対する感覚にはギャップがあることだ。例えば、温暖化により東京が水没するとする。確かに大変なことではあるが、なにも日本が全部水没するわけではないし、日本人が絶滅するわけでもない。選択肢としては、それを阻止するのではなく内陸部に移住することもできるのである。

エアーズロック
真っ赤に見える巨岩・エアーズロック。アボリジニの言葉ではウルルと呼ばれる。

地震や台風といった自然災害が多い地域で暮らす日本人は「環境の変化を受け入れていることに慣れている」と評されることもあるように、比較的温暖化も「受け入れている」のではないか。

ようやく最近になって台風を制御する研究を政府が支援していくことが発表されたが、それまでは甚大な被害があったとしても、被害を最小化するための努力はあっても自然に発生するものを撲滅するという発想はなかった。来るものは仕方ないから耐え忍ぶというのが日本人の発想なのではないか。

温暖化は必ずしもそこで生きる人の絶滅を招くわけではない。少なくとも現段階ではそのように考えられているから、どこまで「我慢」をして脱炭素をするかといわれると立場や考え方によってリアクションは異なる。なかには「温暖化は絶対に阻止しなくてはならない」という人もいるし「できる範囲で取り組む」という人もいる。「別に温暖化してもすぐに死ぬわけじゃないからいいじゃん」という人もいるだろう。このように温暖化に対峙するといっても、取り組む人の姿勢にはかなりグラデーションがある。様子を見ているとどうやら日本人は比較的マイルドに温暖化を考えていて「住んでいる場所が沈んでしまう地域の人たちに申し訳ないけれど、そんな簡単に対策はできなさそうだから、ある程度は成り行きに温暖化に任せて、生き方を少し修正するくらいしかできないのでは」というように現象を受け入れる姿勢の人が少なくない。

独裁国家を説得できるのか

脱炭素の発想を考えるうえでもう一つ重要なのが「まだ間に合う」という思いである。脱炭素を訴える人は「温暖化を阻止するための時間はもう残されていない。けれど今アクションをすれば必ずまだ間に合う」と呼びかける。

現状では、「1.5℃目標」といって平均気温の上昇を1.5℃未満に抑えることが国際的なコンセンサスになりつつある。そのために「1.5℃の達成にはまだ間に合う」という言い方が必ずなされる。「現実は厳しいけれども努力すれば間に合う」。こう言われるのは「できない」と言ってしまえば諦めるほかなくなってしまうためである。

「人類は意思の力によって温暖化を1.5℃以内に抑えることが可能性としてあるのだ」。脱炭素の中心にいるのはそのように信じている人々である。一方で「できるだけの努力はしてみるが本当に達成可能なのか」「協力はするが不可能なのでは」と疑っている人も少なくない。さらにその先にいるのは「もう受け入れた方がいいのでは」という考えの人々である。脱炭素にがっちり取り組んでいる人にしてみれば無責任極まりないが、実際に意思の力によって達成可能だと信じている人とそうでない人はいて、脱炭素に対するリアクションには大きな差がある。

ゲートを閉める男性。
オーストラリアのアリススプリング近郊の牧場入口。ほぼ大陸の中央に位置し、真夏の最高気温は45℃に達する。

しかも世界はもともと一枚岩ではないのだから、アメリカ、中国、インド、このあたりの国々を他の国がコントロールすることは非常に難しい。その他の独裁国家にしても、他国の干渉をどのくらい受けるのかという問題がある。そういった国々を説得して「排出ガスをゼロにすることは必ずできる」という考えの人と、「それは無理なのでは」と考えている人の間では信じている未来像がかなり異なる。

「責任」という概念の変化

「責任」という考え方は、必ず「その問題を解決する能力がある」と信じられることとセットになる。解決能力のない人には責任というのは発生しないのだ。それは不可抗力になってしまう。法的な概念としても、基本的に責任とは権限がある人とか自由がある人にしか責任は発生しえない。

近代の法律の立て付けでは、自由な意思を持った主体としての個人が社会を形成し、その人たちが下した自由意思による決断によって行為が生じると考えられている。もともと責任とは過去に犯した行為に対して求められたものだが、実は現代ではその範囲が拡張しており、責任は未来にまで及ぶ。さらに最近では法律の枠を超えたいわゆる「道義的責任」という考えが現れてきており、刑罰を受けることはなくとも誠意を行動で示すことが求められることがある。

文献を調べた限りでは、英語の“responsibility”という単語には、もともと日本語で言うところの“説明責任”という意味しかなかった。今でいうところのaccountabilityである。つまりは何か行為があったときにそれを説明するのが責任だという考え方である。不慮の事故などに対する便宜的な概念として「責任」は存在したが、昨今のような「道徳的責任」の概念はここ200年くらいに登場したもので、ドイツ語の辞書にその意味が出たのは1920年くらいだといわれている。責任という概念はどんどん変化してきているのだ。

気候変動の正義は“Climate Justice ”や“気候正義”と呼ばれるが、これは実は「道義的責任」に含まれる。つまりこの考え方は少なくとも100年から200年前くらいからしか発生しえない。しかし実はこの「人類の自然に対する責任とは何か」という議題は、100年くらい前からあらゆるところで行われていて、すでに手垢まみれになるほど繰り返されている。このころに自然に対する責任という考え方が生まれてきた理由は、ごく簡単に言えば、近代に入って神が否定されてしまったことに由来する。それまで自然を含む万物を管理していたはずの存在がなくなり、そこ空席ができてしまったのだ。だからその空席を埋めるがごとく、人間が管理者として代わりにそこへ入っていったと考えられている。「責任」や「主体」、「人格」「個人」「生命」「社会」といった概念はこの過程で生まれた。そして社会全体、地球、自然全体に対して責任を持つのは主体たる人間であるという考えが構成されたのである。

その近代の枠組みを日本は輸入したわけだが、それがぴったりと馴染んでいるとは言い難い。一応は「社会」も「人格」も「個人」も「責任」も単語としては存在するが、「主語」という概念は実は日本語には存在しないという説があるほど、日本の文化には「人格」や「個人」という考え方は必ずしも馴染まない。結局、日本人はいまだに群れの中の一人なのである。だから「自然に対する責任があなたにあるよ」と言われても何かいまひとつピンと来ない。そのような考え方の構造のギャップが、「地球に対する責任」への何か違和感の根本にあるのだと思う。

だからといって対応しないわけにもいかないし、そこにさらに経済的な要素や政治的な要素が加わっている今この波に乗らないことは損失が大きい。モヤモヤとした気持ちを抱えながらも「なんとなく脱炭素」に加わっている人が少なくないのが日本の脱炭素の現状なのである。(次回、「日本人が理解しがたい『気候正義』」に続く)

参考文献
生きる意味』 著 イハン・イリイチ(藤原書店 2005年)
増補 責任という虚構』著 小坂井敏晶(ちくま学芸文庫 2020年)
(論文)自然に対する義務と人間中心主義 : カント哲学の人間観を手がかりに 田中 綾乃