対話は本当に紛争の解決手段になりうるか
「戦争をなくすには、どうすればいいと思いますか」
大学の授業で学生たちに問いかけると、必ず数名が「政治問題を武力ではなく、話し合いによって解決すればいい」と答える。日本の戦後教育の中核には民主主義がある。私たちは学校教育を通して、議論するなかで、お互いの異なる意見を理解することが理想的な問題解決だと教えられる。相互に攻撃し合うよりも、対話によって和解することが良いとされている。学生たちは、その指導にしたがって、私の問いに答えているにすぎない。現実的には世界中で地域紛争が起き、テロや武力衝突が繰り返されている。戦争だけではなく、個人間の殺人や暴力事件も起きている。家族や友人を殺されてなお、対話を求めることはできるのだろうか。また、日本では学校でのいじめ問題で、被害を受けた生徒が教員に和解を迫られることもある。子ども時代に、加害者の形だけの謝罪のあと、握手することを強いられたことがトラウマになっている人もいる。「対話による紛争解決」という言葉の聞こえはいいが、加害者を免罪し、被害者を放置する隠れ蓑にも使われかねない。
では、本当に対話によって紛争解決する方法はあるのだろうか。ここで、修復的正義の考えに基づく、被害者・加害者の対話プログラムの実践例を紹介しよう。これは、マーク・S・アンブライト『被害者・加害者調停ハンドブック: 修復的司法実践のために』(藤岡淳子監訳、誠信書房、2007年)の事例を元にしている。この本は、修復的正義のファシリテーター(進行役)養成のトレーニングの教本であり、これまでの現場での実践をもとにした事例が提示されていて、具体的なプログラムの実施風景を想像するのにとても役立つ。ただ、残念なことに米国社会を前提とした事例が多く、細部は日本の読者には馴染みがなくわかりにくい部分がある。そこで、より豊かにイメージを膨らませてもらうために、私が現代日本の文脈に沿って事例をドラマ仕立てにして脚色し、書き換えた。もちろん、登場人物も事件も全て架空である。みなさんには、「どの立場なら対話に参加するだろうか」を考えながら、以下のお話を読んでいただきたい。
とても寒い冬の夜、就寝中の石田さんは不審な音を聞いて目を覚ました。石田さんは50代の男性で、アパートで一人暮らしをしている。彼がカーテンを開けて、目の前の駐車場を見ると、思わぬ光景が広がっていた。そこでは、小柄な少年が石田さんの車のドアをこじ開け、運転しようとしているのだ。「車泥棒だ!」そう思った瞬間に、パトカーがサイレンを鳴らしながら、駐車場に入ってきた。警察官たちが飛び出してきて、少年を地面に押さえつけて手錠をかけるのが見えた。驚いた石田さんが駐車場に出てくると、石田さんの車はボコボコになり、塗料がはげていた。実は石田さんは車が大好きで、給料のほとんどを塗装や部品の交換に費やしている。この車も、ちょうど二週間前に納入されたところだった。石 田さんは車の惨状にショックを受け、泣き出したい気持ちになった。それと同時に、頭の中に疑問が浮かんだ。
「あの少年はまだ運転免許を取れる年じゃないけどなあ」
警察から事情聴取を受けながら、石田さんはずっと「あの少年はなぜ自分の車を盗もうとしたのか」を不思議に思っていた。
その一ヶ月前、清水さんは、朝、自宅の前に停めていた車がなく、呆然としていた。清水さんは30代の女性で、派遣社員として工場の事務職をしている。仕事先までは車がないと通えないので、欠勤の連絡を入れて警察に被害届を出した。派遣元からは「通勤ができないとなると、仕事の継続は難しいですね」と契約を打ち切られてしまった。翌月、警察から車が見つかったという連絡が来た。車を取りに行くと、中には食べかけのお菓子や、弁当がらが放置されていた。避妊具も散らばっている。警察の説明によると、少年たちの窃盗団が逮捕されて、この車が発見されたらしい。犯人の一人は、石田さんの車を壊した少年だった。清水さんは「犯罪者たちから慰謝料を取りたい」と強い口調で言った。
事件から二ヶ月後、石田さんと清水さんのケータイ電話に、神崎さんからの連絡があった。神崎さんは、修復的正義の対話プログラムのファシリテーター(進行役)をしていると言う。神崎さんによれば、車を盗んだ少年が被害者に謝罪したいらしい。石田さんと清水さんと神崎さんが集まり、対話をするかどうかを話し合った。石田さんは、車の修理代は保険がおりたのでもう気にしていないから、少年に会って話を聞いてみたいと言う。それに対して清水さんは、「私は保険に入ってなかった から経済的にも辛い状況だし、寛容な態度を取れそうにありません」とため息をついた。彼女はとても怒っていて、少年の顔を見ると罵倒してしまそうだと話した。石田さんと神崎さんは、清水さんが激昂したら止めに入ることを約束して、サポートすると申し出た。そして、三人は少年に会ってみることにした。
対話をする日がやってくると、石田さんと清水さんは落ち着かない様子だった。神崎さんが用意した会議室で、椅子に座ってソワソワしている。そこに、少年がやってきた。彼は15歳で誠くんという。誠くんは、俯いて部屋の中に入ってきて、お辞儀をすると椅子に座った。その姿を見て、清水さんは「こんな少年が犯罪者なのか」ということにショックを受けた。もっとふてぶてしい、凶悪な姿を想像していたのに、誠くんは不安げで心細そうだった。石田さんが、「なぜ、車を盗んだのか」を聞くと、誠くんはとつとつと話し始めた。
誠くんのお母さんは、夫のDVから逃げて離婚をした。今は母子家庭である。幼い頃の誠くんは、体も小さく近所の子どもたちからいじめられていた。思春期に入る頃、親戚のおじさんがやってきて、誠くんに車泥棒の方法を教えた。彼はあっという間にその方法を覚えた。そして、不良グループに入り、みんなを先導して車泥棒を繰り返すようになった。彼は犯罪をおかしている時だけ、自分が輝けるのだと感じていた。夜中に犯罪仲間と駐車場でたむろっていると、自分の居場所を見つけたと思った。だが、実は逮捕される寸前、誠くんは犯罪グループを抜ける決意をしていた。なぜなら、警察とのカーチェイスの中で、親友が事故で死んでしまったからである。
「このままだと、俺ももうすぐ死ぬ」
親友の死を目の当たりにして、誠くんは「死にたくない」と強く思った。その矢先、警察に逮捕されてしまった。彼は「正直言うと、ほっとしました」と語った。
石田さんは、誠くんの話を聞いて涙ぐんでしまった。自分も人生がうまくいかなかった頃がある。だが、学校や職場の先輩が助けてくれたおかげで、道を外さずにすんだ。この子にはそういう人がいなかったのだと思うと、いたたまれない気持ちになった。そして、助けになってあげたいと心から思った。石田さんは、誠くんにメールアドレスを渡して、「君が本当にやり直す気持ちがあるなら助けたい」と伝えた。
「とにかく、一人で思い詰めちゃダメだよ。俺が一緒にどうすればいいか考えるから。いつでも連絡しておいで」誠くんは、驚いた顔をしたが、そのあと涙を流して、何度もそれを手で拭った。彼はこう語った。
「俺は今日は、何を言われても受け止めようと思っていました。怒鳴られても耐えようと。でも、こんなふうに親切にしてもらえるなんて、想像もしてなかった」
その様子を見て、清水さんは「もう、いい」と思った。誠くんのやったことをゆるすことはできないけれど、慰謝料を請求するのはやめようと決めた。そして、「そう思えてよかった」と感じた。清水さんは事件の後、夜になって眠ろうとすると少年への憎しみが湧いてきて、寝られないこともよくあった。そのときに思い浮かぶ少年の姿は、目の前の誠くんの実像とは全く違う。清水さんは、彼の生い立ちの不遇へ同情していたし、そうできる自分が誇らしいと感じた。
その後、神崎さんの提案で、誠くんが今後、どうやって償っていくのかについて話し合うことになった。石田さんは「二度と同じことを繰り返さないでほしい」と伝えた。誠くんは「今は、自分も強くそう思っているけど、家に帰ったら……」と言葉を濁した。彼の住んでいる地域には、犯罪仲間が今も逮捕されずに暮らしているし、親戚のおじさんもやってくる。できれば、引っ越したほうがいいが、誠くんのお母さんはそれに賛成してくれないらしい。神崎さんと石田さんは、誠くんのお母さんとも対話が必要だという結論を出した。他方、清水さんは「私はもう納得したのでいいです」と言って、対話への参加を終えると決めた。
数日後、神崎さんと石田さん、誠くんのお母さん・春美さんが集まって2回目の対話を行った。春美さんは、早口でいかに自分がこれまでつらかったのかを話した。幼い誠くんを抱えて仕事を探すのは難しく、収入が十分ではないのでアパートを探すのも大変だった。やっと、今の家に落ち着いたし、ここで暮らすので精一杯だと言う。神崎さんと石田さんは、最初に春美さんが一人で頑張ってきたことを労い、「大変でしたね」と共感した。そうすると、彼女はびっくりして「そんなふうに親身になってもらえるなんて」と言う。
「息子が犯罪者になってしまって、母親失格だと私は思って……」
神崎さんと石田さんは、春美さんを慰め、「誠くんはいい子だと思いますよ」と伝えると、彼女は泣き出してしまった。さらに、神崎さんは、シングルマザーが使える支援があるのでそれを利用してはどうかと提案した。これまで春美さんは、役所が苦手だし、福祉の世話になる のは恥ずかしいことだと思ってきた。しかし、神崎さんと石田さんの説得で、誠くんのためにも福祉のサービスを受けて、落ち着いた環境で暮らせるよう、引っ越しすることを決めた。彼女は、これから誠くんが再犯しないように、母親としてサポートしていくことを約束した。
良き市民は対話に希望を見出す
あなたは、どの立場なら対話に参加したいと思うだろうか。実は、私が修復的正義や対話をテーマにした講演会やワークショップで、このお話をすると、多くの人が感動する。どの立場でも対話をしたいという人もいる。誠くんが車を盗むに至る背景には、彼の苛烈な生い立ちがあった。石田さんが誠くんに同情的なのは、彼もまた後ろ暗い過去を持っているからだ。清水さんが誠くんへの怒りを抑えられないのは、彼女の厳しい経済状況がある。春美さんが、息子の犯罪を止めて救えなかったのは、彼女自身も誰にも助けてもらえなかったからだ。そして、一つの車泥棒の事件の背後には経済格差や福祉の問題が潜んでいる。対話の中で起きていることは、人々のストーリーの交錯である。犯罪によって偶然、結びつけられた 参加者たちが、対話を通して「加害少年の更生」という一つの目標に向かって、進み始める。この対話は、お互いの意見をぶつけ合うような議論ではない。誰が正しいのかを競うわけでもない。過去に起きたことに向き合うなかで、よりよい未来へ向かって歩き出そうとする。この事例では参加者が話し合う中で、そのプロセスが自然発生している。そして、こんなことを可能にする修復的正義に強く惹かれる人も出てくる。特に、自分が誠くんの立場であれば、こんなふうに自分の事情を話して理解してもらう機会がほしいと思う人は少なくない。良き市民である人々は、修復的正義の対話の力に希望を見出すのである。
対話の力を信じられない加害者たち
他方、この対話の事例は、加害者に寄り添うようなストーリーになっている。被害者が加害者に手を差し伸べるような描写は、加害者に「自分はゆるしてもらえるのだ」という甘い考えを抱かせるのではないかという懸念を抱く人もいるかもしれない。もっと、被害者の傷つきに焦点を当て、加害者に対して怒りや憎しみをぶつける展開のお話を望む人もいるかもしれない。ところが、このお話は加害経験のある人たちに評判が悪い。私は犯罪歴のある人たちに、同じ事例を説明したことがある。かれらの大多数の意見は「こんなのは現実的ではない」だった。ある人の「こんな被害者だったら、対話したいけどさあ」という言葉が心に残っている。かれらにとって、石田さんや清水さんのような被害者は絵空事で、リアリティがないと感じられたのだろう。誠くんの態度に対しても、こんなのはその場限りの演技で、嘘に違いないと断言する人がいた。また、自分は被害者の立場になっても、過去に起きたことは水に流して生きていくから、対話など必要ないのだと話す人も出てきた。つまり、対話の力を全く信じておらず、対話を求めないのは加害経験のある人たちのほうである。対話に希望を抱く良き市民と対照的に、加害体験のある人は対話に対して冷めている。
そもそも、この事例は架空のフィクションである。あまりにも美談にすぎる。いくらトレーニングを積んだファシリテーターがいるとはいえ、こんな都合の良い展開が実際の対話で起きるのだろうか。だが、驚くべきことに、前述したアンブライトの『被害者・加害者調停ハンドブック』によれば、ミネソタ大学の調査では対話に参加した被害者の満足度は8割を超える。修復的正義ではほかにも実証的な研究が多数行われているが、少なくとも裁判よりは対話の参加者のほうが、満足度が高い。また、修復的正義のプログラムは、軽犯罪だけではなく殺人や性暴力、教育や福祉の場での暴力など、さまざまな類型に応じて発展している。さらに、家族関係の改善を 目指すFGC (Family Group Conference)や、コミュニティの人々の交流を促進するサークルなど、直接の被害者・加害者対話だけではなく、より柔軟で広い対話実践も行われている。つまり、修復的正義の対話は夢物語ではなく、現実的に有効な実践なのである。
対話をめぐる二つの思い
みなさんは、修復的正義の対話に希望を見出すだろうか。それとも、ご都合主義だと退けるだろうか。実は私は「良き市民」より「加害経験のある人たち」に立場が近い。私は対話が嫌いなのである。そもそも、私は被害・加害関係にある人どころか、価値観の違う人と話すだけで疲れてしまう。できれば気の合う人と気ままにおしゃべりしていたい。暴力や犯罪が起きたとしても、私自身は可能な限り対話を避けたい。それにもかかわらず、私は修復的正義の研究者になってしまった。私が対話に惹きつけられるのは、二つに引き裂かれる想いがあるからだ。一方に、「対話なんてしたくない」という億劫さがある。できれば、誰とも対話せず、安穏と生きていきたい。他方に、「対話には希望がある」という夢想がある。対話によって分断された被害者・加害者が、一つの未来に向かってともに歩み出すという美しいビジョンである。しかも、このビジョンは科学的調査によって実現可能だというデータが示されている。夢と現実。私はその二つの間を揺れ動きながら、修復的正義の研究を続けている。
では、なぜ、私は引き裂かれるのだろうか。大きな理由の一つは、私が被害経験を持つことにあるだろう。私は19歳の時に性暴力の被害にあった。それからずっと、加害者について考え、対話の可能性を探究し続けてきた。その経験を元にした新著『当事者は嘘をつく』が、筑摩書房より近日出版される。暴力や犯罪によって深く心が傷ついた被害者もまた、対話への不信を持つことがある。孤独のなかで、「話してもわかってもらえない」「理解されなくても良い」という諦念に至るのである。そこで次回は、自分の経験も踏まえて、被害者の視点から修復的正義と対話の可能性について考えてみたい。
本文中に登場した書籍
『被害者・加害者調停ハンドブック: 修復的司法実践のために』 著 M.S.アンブライト、監訳 藤岡淳子(誠信書房 2007年)
『当事者は嘘をつく』著 小松原織香(筑摩書房 2022年1月31日発売)