桂離宮にも文化住宅にもある「和室」
コンビニの商品開発者と高級料理店の料理人が同じ「食文化」世界のものづくり人だと気付いた時ほどの驚きを誘いはしないだろうが、「住文化」世界のものづくり人に関して言えば、庶民の住宅の工事に関わる町場大工もいれば、文化財クラスの建物の工事を手掛ける宮大工や数寄屋大工もいる。一般の読者の方々は驚くどころか、むしろ両方とも同じ大工で区別がつかないと言われるかもしれない。けれども私のような建築の世界に属する者にとって、町場大工と宮大工、町場大工と数寄屋大工は、何百年と元を辿れば同じかもしれないが、今は全く異なる種類である。
「プロフェッショナル」的なテレビ番組に取り上げられるのは、法隆寺や薬師寺の宮大工だったり、坪当り工事費が数百万円(一般的な木造住宅だと一桁違う)の高級数寄屋を手掛ける数寄屋大工だったりするが、数は町場大工の方が圧倒的に多いし、私たちの日常的な住文化に直接関わってくるのは町場大工の方である。双方とも同じく住文化を支えるものづくり人というわけだ。
ただ、世間の扱いには異なるところがある。例えば、ユネスコ無形文化遺産。2020年12月17日に文化庁から発表された新たなユネスコ無形文化遺産は住文化・建築文化関連だが、「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」というものだった。具体的には下表にあるように、文化財保護法に基づく国の選定保存技術17件(14団体)だけが記載された対象である。とても限定的である。文化財ではない文化住宅を含む日本の住文化に深く関わっているものづくり人、町場大工は一人として対象ではない。
実は、私自身はこの6年ほどの間、日本の和室を、ユネスコ無形文化遺産にで きないものかと考え行動する研究会を運営してきた。読者の皆さんも、日本の住宅から和室が消えていきつつあると聞けば、確かにそうだと気付かれると思う。今のままでは、世界でこの国にしかない和室が絶滅してしまうかもしれない。そう考えると何かしなければという気持ちになった。同じ気持ちになった人が40名ほど集まって研究会を立ち上げた。『和室学-世界で日本にしかない空間』という本も出版した。ユネスコ無形文化遺産への道はまだまだといったところだが、私たちのいう和室は「伝統工匠の技」とは一線を画す。対象を伝統建築の中の高級な和室に限ることなく、普通の日本人の生活文化が育まれ展開される空間として日本中に広がった和室の全体を評価してほしいのである。そして、その国際的な評価が、普通の日本人の生活空間としての和室の次なる展開に結び付けば幸いと考えている。和室は桂離宮や旧山邑邸にもあるが、文化住宅にだってある。そこが重要だ。
和室の定義自体は議論のあるところだが、仮に畳が敷き詰められ、水平方向に天井が張られ、障子や襖といった建具で仕切られている部屋だとすると、それは明治時代以前から文化住宅のような一般庶民の住宅にあったわけではない。そのような部屋の最初期のものは、銀閣寺とも呼ばれる慈照寺の東求堂という建物の一角にある同仁斎。これは4畳半の広さだが、室町幕府第8代将軍だった足利義政が隠居後につくった部屋である。まさしく特権階級の人物が使う部屋だった。これが15 世紀末のこと。そして遅くともその約500年後の昭和時代には多くの一般庶民の住宅の中に普通に見出せる部屋になっており、人々の立ち居振る舞いや様々な生活行為のあり方を決定する空間になっていたのだから、大したものである。何が大したものかと言えば、この和室を成り立たせるものづくり人が日本の津々浦々に存在する、あるいは津々浦々に物を行き渡らせるようになったことがである。
和室の骨格としての柱、梁、長押はもちろんのこと、敷居や鴨居、天井といった木部をつくる大工(一般的には町場大工)、襖や障子等の建具をつくる建具職と経師や和紙漉き職、畳をつくる畳職、畳表をつくる藺草農家、畳縁をつくる織物屋、土壁部分をつくる左官、欄間をつくる彫師等々のものづくり人。こうしたものづくり人が殆どの日本の住宅に対応できる形で育成され、継承され、展開してきた幾世代にも亘る過程に想いを馳せる時、それは驚嘆に値することとして胸に迫る。この過程の上に立つものづくり人の世界こそ、私たちの文化の基層と言って良い。