イルカの知性、ヒトの知性
1960年代にアメリカの大脳生理学者のJ.C.リリィはイルカを「知的な動物」と評し、その論調は一世を風靡した。紀元前にアリストテレスがイルカのことをそう唱えてから数千年の時を経て、リリィのこの言葉によってイルカは再び賢い動物と言われるようになった。
しかし、何が賢いのだろう。それを丁寧に考えていくとイルカの知性とコミュニケーションの妙が垣間見えてくる。はたしてイルカとヒトの知性やコミュニケーションは同じなのか。イルカの心の世界から、認知やコミュニケーションについて想いをめぐら してみたい。
群れの中で起きていること
船で海に出るとイルカの大群に出会うことがあるらしい。岸からさほど遠くない海で暮らしているイルカなら多くて数十個体くらい、広い大海で生活する外洋性のイルカになると数十、数百、時には千を超える数からなる群れをつくる。そんな光景はさぞや壮観であろう(筆者は船酔いがひどいので、そういう経験はない)。
群れの中でイルカたちはさまざまな社会的な行動をくり広げている。まるでヒトの社会行動のように、おしゃべりが始まり、仲が良くなることもあれば喧嘩をすることもある。また協力したり騙したりという行動も起きる。威嚇や闘争もあれば、オス・メスにかかわらず友好的な行動をしたり、あそび合ったりもする。仲間と共同して狩りもするし、驚くことに他の群れと連合を組んで行動することもある。
群れをつくる野生生物は多い。海の動物でいえばサンマやサバなどのサカナも群れをつくる。イワシの群れが輪になって水槽内を豪快に回転する様子は水族館で人気の光景である。そんなサカナたちは目の前にあるものが餌かどうかの識別はしているだろうし、天敵が現れたら逃げる術も心得ている。繁殖のためオスがメスの気を引こうとあれこれ苦心をしている姿は涙ぐましいものがある。こうした行動は行き当たりばったりのものやDNAに刻まれた本能によるものもあるが、さまざまな経験を記憶し学習した結果、身につけたものも少なくない。つまり、サカナにはサカナなりの認知機構がある。ではそんなサカナたちが群れで狩りをしたり、連合を組んで他の群れを襲ったりするかというと、そんな 話は聞いたことがない。だからそんな行動をするイルカには、サカナよりさらに一段進んだ知性のレベルがあることになる。
イルカに見られる社会的行動は、視覚や聴覚を用いた巧みなコミュニケーションによって成り立っている。盛んに音を出し合い、あるいはお互いの行動を目で確かめ合いながら行われるのだ。それは海でも水族館のような飼育下でも変わらない。水槽内でそれまで自由勝手に泳いでいた2個体のイルカが、突然、ピタっと並んで泳ぎ、一糸乱れぬ様子でシンクロし始める。ヒトにはわからない、何かのコミュニケーションが存在している。
そんなイルカたちのコミュニケーションはどのような形式に基づいているのか。コミュニケーションが形作られるには、それを裏打ちする認知の仕組みが必要である。私たちヒトにしても、状況を認識せず、また相手が誰かもわからず、やみくもに人に語りかけることはしない。イルカだってそれは同じはず。よく状況を把握し、相手を同定しなければ、必要なコミュニケーションを図ることはできない。だからイルカのコミュニケーションを知るには、まずその認知のしくみを知ることが必要だ。そうした高度な認知能力がコミュニケーションの引き金となり、それが「知性」につながる。
脳は知性の指標たりうるか
そもそも「知性」とは何か。そこにはさまざまな解釈があり、決め手となる定義がない。しかし私たちは何となく漠然と「複雑な行動を生み出す、脳に由来する何か」といった意味を了解し、「知性」という言葉を使っている。脳に由来するものであるなら、脳がどのように情報を処理しているかを知ること、すなわち認知のしくみを知ることが知性を理解する手掛かりになるはずである。
「脳を知る」というと、まず最初に思いつくのが脳の生理的な特徴を調べること。どんな構造で、どのくらい神経細胞があるのかを調べることが知性の理解に結びつく要素だと考えるのは自然なことである。
確かにイルカの脳は大きく重いし、また表面にはヒト並みのシワもある。シワが多いと表面積が増えるので、その表面に分布している神経細胞も多くなる。実際、イルカには高等霊長類やヒトをもしのぐ数の神経細胞があるという計算がある。しかし、脳内のすべての神経細胞が知的作用に関与しているとは限らず、全然関係ない仕事をしている神経細胞だってきっとあるはずだ。
重さはどうだろう。アリストテレスの時代からイルカの脳は同じサイズの動物の脳よりはるかに大きいと言われてきた。しかしからだが大きければ脳も大きいので、脳の重さそのものが知能の優劣を表わすわけではない。そのため脳を指標とした評価には、脳の体重に占める割合が用いられることが多い。「脳化指数」と呼ばれるもので、脳の体重比に基づいて計算される値である。それによると、イルカはヒトに次ぐ値になっている。「地球上で2番目に頭のいい動物」と言われるのはこんなことも由来になっているのだろうか。しかし、かたい絆で結ばれた家族をもち、他のイルカたちより知的な狩りをすることで知られるシャチの脳化指数の値は、あまり社会的ではないと言われるネズミイルカの値よりも低い。つまりこの脳化指数もあてにならない。
どうやら脳のシワや重さだけで知性を語る ことはできないようだ。
脳につまった知的資源
では、ヒトや高等霊長類をもしのぐほど多くの神経細胞を持つ大きな脳にはいったいどんな知的資源が埋まっているのだろう。それを発掘してみたい。
脳の生理学的な指標はあてにならないことは上述のとおりなので、今度はその行動から知性を観測してみる。知的とされる行動を引き起こすためには高い認知特性がなければ、何かを識別したり考えたりしてそこに応じた行動をとることはできない。
スマホに映った昆虫をエサだと思ってカエルが何度もスマホに飛びかかることと、モニター画面に映った隣の水槽にいるトレーナーがイルカを呼ぶサインを見て、そのモニター画面にではなく隣の水槽に向かって泳いでいくイルカの光景とでは、認知の段階が違う。カエルは映っているものが映像であるという認識ができていないが、イルカはそこに映っているのが隣の水槽であることをよく理解している。
理屈っぽい言い方をすれば、対象物や周囲の状況を正確に把握し、そこに経験や記憶、学習によって結果の論理付けができてはじめてその相手との関係を理解するので、その先の予測ができる。コミュニケーションはそこからスタートにする。スマホの映像が餌の昆虫であることはわかっても、それが実物と偽物の識別ができず、何度も飛びかかり学習もできていないカエルはその後のコミュニケーションは期待しにくい。しかし、映像をみて隣の水槽に泳いでいったイルカたちとトレーナーとのその後については容易に想像がつく。モニター画面の前でいつまでも待っていたのでは、何も起きない。
イルカが多くの個体とコミュニケーションをしている時にもいろいろな複雑な認知過程が介在しているに違いない。彼らの行動を実験的に解析していけば、認知能力、その知的資源の一端を知ることができる。
認知とは何か
ところで、「認知」とは何だろう。これにはさまざまな解釈がありそうだが、「行動生物学辞典」(東京化学同人)を紐解くと、「ヒトを含む動物が身の回りの情報を取入れて処理し、反応のために利用したり、蓄積したりする心的過程のすべて」とある。この説明だけは何だかよくわからない。しかしそ れに続いて「知覚、学習、記憶、推論、思考、意思決定、注意、カテゴリー化など」とあり、こうなると少し具体的なイメージがわいてくる。こうした項目について一つひとつ実験をして明らかにしていき、それを組み立てて総合的に認知のしくみを推察する作業、それが「研究」である。
これまでイルカの認知についてはさまざまな研究が行われてきた。それによると、イルカはヒトのやり方と同じように情報を蓄積(記憶)する。また、ヒトの声やしぐさを模倣する。筆者の実験では突然聞かせたヒトのことばをイルカは上手にマネするし、ほかの研究ではヒトがイルカの前で見せた行動そっくりに行動することができている。音をマネする動物はイルカだけではないが、ヒトのしぐさを即座に正確にマネするのはイルカぐらいである。こうした模倣は、知覚、記憶、再生といった複雑な認知機能が必要で、大変な作業なのである。
ペットで飼われているイヌに「ほら、あれ見てごらん」と何かを指さしても、イヌは指された先のものではなく、その人の指先を見ているだけだが、同じことをイルカにやってみると、イルカはちゃんと指されたものを見ている。ヒトとまなざしを共有できるのだ。また、イルカは鏡を見てそこに写っているのが自分であることも知っている。これは鏡像認知・自己認知と呼ばれる過程。さらに、イルカは数や順序、大きさといった概念も持っている。
まだまだほかにもイルカの高い認知特性は報告されているが、こうしてみていると、イルカの脳の中には「知覚、学習、記憶、推論、思考、意思決定、注意、カテゴリー化」といった認知の部品が詰まっている ことがうかがえる。
ただその使い方がヒトと同じかというと、実はそこには違いがあるらしい。
イルカなりの知性
筆者はイルカに言葉を教える研究をしている。その研究の中でこんな実験をした。
ダイビングで身に着けるフィンとマスク、それから「⊥」と「R」という記号の描かれたターゲットを使い、イルカにフィンを見せたときは2つの記号のうちの「⊥」を、また、マスクを見せたら「R」を選ばせた。正しく選んだらエサをあげる。するとイルカはまた同じことをしよう(同じものを選ぼう)とする。これを「強化」という。こうしたことをしばらく続けていると、やがてフィンを見せたら「⊥」を、マスクを見せたら「R」を確実に選べるようになった。そこで今度は逆をやってみた。つまり、「⊥」を見せてフィンとマスクからフィンを選べるかという実験である。結果は、全然できない。「⊥」を見せてフィンとマスクを目の前に並べると、左右をさんざん見交わして、結局、当たらない。フィンから「⊥」は選べるのに、逆の「⊥」からフィンは選べないのである。マスクについても同じだ。「R」を見せてもフィンを選んだりマスクを選んだり……である。
すなわち、「A→B」はできるのに「B→A」ができない。こういう関係を対称性というが、それができないのである。
私たちはふだんの生活でこうした対称性の関係を無意識のうちに、自然に使っている。たとえば、私たちはリンゴが「apple」というスペルであることを覚えたら、逆に、果物屋さんで「apple」と書かれた札を見て、たくさん並んだ果物からリンゴ を選ぶことができる。造作もないことである。また、ビジネスの現場では、初めて会った取引先の人とは名刺交換してその人の名前を覚えるが、展示会で今度は大勢の人がいる中で、名刺で覚えた名前がどの人かわからなければ商談が成立しなくなってしまう。
視覚だけではなく、視覚と聴覚の関係も同じだ。ピアノを弾きながら、「音符のドはこの音、音符のレはこの音…」というふうに音符が示す音階を覚えたら、今度はピアノから聞こえてくる音を聞いて音符を書くことができる(ただし、これはみんなができるわけではない)。「ド→実際の音」がわかれば「実際の音→ド」もわかるという具合である。
ほかにもこうした例は枚挙にいとまがないが、ヒトはこうした関係を理解できるから円滑で豊かな生活が送れている。それはコミュニケーションにおいても同様で、上述のビジネス現場の例からわかるように、私たちはもし対称性が理解できなければ円滑なコミュニケーションもできなくなってしまう。
しかし、イルカにはそれができない。こんな簡単なことなのにできない。なぜだろう。
実は、この対称性が理解できない動物は結構多い。優秀と言われるチンパンジーでもできない。こう考えると、本当はできないほうが当たり前なのかもしれない。
ではなぜヒトはできるのだろうか。生まれたばかりのヒト(乳幼児)でも対称性は理解できるのか。もしかしたら、動物はみな生まれつき対称性が理解できず、ただ、ヒトの場合は人生における莫大な経験を経た結果、できるようになったのではないか……そんな推測も浮かんでくる。実際、対称性が理解できない動物でも訓練や経験を積むとやがてできるようになるし、イルカも経験を経た個体は対称性ができるようになった。
イルカだってふだんの生活の中で莫大な経験を積んでいるだろうから、対称性がはぐくまれているはずなのに、年長の個体でも対称性が成り立たないということは、イルカたちにはそういう経験がない、あるいは経験していることの中身がヒトとは違うことを意味する。少し乱暴な言い方をすれば、死ぬようなことでない限り何をしてもよく、どんな行動をしても誰からも咎められることがない野生動物たちと、生まれてから、「あれしちゃいけない、こうしたほうがいい」とさまざまなルールや制限を課せられ、倫理や正義といったことに演出された複雑な社会のなかで育ったヒトとでは、経験していることの量も質も全く違 うのかもしれない。
ところが、イルカたちは対称性を理解できないのに、お互いに盛んにコミュニケーションしているように見える。狩りをめぐる戦略やほかの群れと連合を組んで別の群れを攻撃するとき、あるいは生態において行われていると思われる複雑なやりとりも、こうした「逆に考える」関係がわからずとも、ちゃんとできている。別に困っている様子もない。
こうしたことから考えると、イルカとヒトでは事象についての認識の結びつきが違うのではないかという想いが出てくる。ヒトとは大きく異なる生態で暮らしてきているのだから、ヒトと違った認識の違いや論理の展開をしていてもおかしくない。イルカにはイルカなりの知性があるのかもしれない。そう思うと、もしかしたらコミュニケーションのしかたもヒトとは違うのかもしれない。次回はそうしたコミュニケーションのしかたの違いから、イルカの知性を探っていく。
本文中に登場した書籍
「行動生物学辞典」(東京化学同人 2013年)