一通りではない「読む」という行為
メディアと接することは時間を使う。我々がメディアに接する時間は、睡眠や仕事の時間を差し引けば、平日は最大7時間ほどだろう。多めに見積もると1日の3分の1にあたる。
しかしメディアから発せられるものを受け取る姿勢は多様で、受け手は常に画面や誌面を凝視しているわけではない。「見る」や「読む」という行為には複数の種類があり、そこにはじっと見るgazeも何気なく見るbrowseも含まれる。多くの人は何かをしながら情報を受容しているのだ。さらに複数のメディアを同時に視聴するということもそれほど珍しくない。本を読みながらテレビやラジオをつけていることは頻繁にあるし、書斎でパソコンの画面を開いたまま新聞を読むこともある。
情報の送り手であるマスメディアはあまりそれを意識せずにコンテンツを作っている。さらに教育の現場では、NIE(Newspaper in Education)のような新聞を使った教育実践、あるいはテレビ番組を委員が真面目に見てコメントしたり批評したりする番組審議会のような、あまり普通ではない真剣な接し方が標準的だと想定されている。
『メディア論の名著30』の30冊目でも書いたよう に、国語教育で教わるような読み方は現実的には極めて特殊な読書だ。学校ではわからない意味がほとんどないようになるまで辞書で調べて、文章を最後まで読み通して意味をとるように教育される。大学入試の現代文も基本的にはその規範の中で出題されている。外国語の初級レベルではそのような読書をせざるを得ないが、日常的には辞書引きながら本を読むという行為はほとんどない。だとすれば、そういう特殊な状況を読書の規範とするような教育のあり方は問題ではないのか。日常生活と教育現場で極端な隔たりがある読書法は、あまり有用でないのかもしれない。
新聞紙がビジネスとして成立するとすれば教養メディア
度々「日本人は自分の頭で考えることをしない」という声を耳にすることがある。だが、考えるためには時間的にも心理的にも余裕が必要だ。今の日本社会にはなかなかそのような余裕のある人は少ない。そこを国際的な比較として議論するのであれば、経済活動や生活のレベルなどを全体的に検討する必要が出てくる。
よく引き合いに出されるのは日本の大手新聞社の発行する記事内容と、ヨーロッパの高級新聞のそれとの質の差だ。確かにイギリスのThe TimesやドイツのFrankfurter Allgemeineなどのヨーロッパの朝刊紙には知的で高度な議論をうながすような学術風の記事もあるが、日本の新聞にはそれはない。しかしそもそも朝日新聞にしても読売新聞にしても発行部数がそれらの新聞とは1桁違うわけで、少数エリートのためには売られていない。だから高度な議論ができるような 新聞を作りたければ、少数者が買って読むためのメディアがビジネスとしてどのように成り立つのかを考えなくてはならない。
そのためには、教育も変わらなくてはならないだろう。「どうしても良質な新聞が必要だ」と考えるのならば、「教養メディア」あるいは「知的生活の教科書」というパッケージで新聞を発行するといった発想が必要かもしれない。
そのような意味では、今後メディア産業では教育ビジネスの展開が非常に大きな可能性を秘めているのではないか。さらに言えば『テレビ的教養』にも書いた通り、家電メーカーなどもかつてのように教育ビジネスに参入してくるのかもしれない。ソニーの成長は学校の教室にテープレコーダーを売り込むことで始まった。その他の日本の家電産業も学校放送用のテレビ受信機を量産して国内マーケットを確保して発展の基礎としたわけだから、そうした形で教育が一つのビジネスの柱になるということは充分考えられる。
情報ツールが変える「能力」をどう評価するか
現在、学校にタブレット機器が大量にばらまかれようとしている。時流を考えると当然の流れなのだが、これは新たな情報格差を生み出すかもしれない。リテラシーという言葉が示す能力は通常は読み書きに関連するが、タブレットを使った教育では「書く」機会はそれほど多くない。下手をすると「読む」ことに特化するような教育になってしまい、「書く」能力で大きな偏りが生まれるだろう。
かつての放送教育でも小学校の教室にはテレビが導入されたが、中学や高校になると少なくなった。特に進学校の教室にはテレビはあまり入らず、テレビを導入したのは教育困難校が多かった。受験は筆記試験で行われるから、テレビで教育を受けた子どもよりも板書でノートに書き写していた生徒の方が成績がよくなるのは当然だ。
だから筆記試験が続く限り、テレビで授業を受けた生徒は板書で授業を受けた生徒に比べて不利になると考えられた。
しかしここにきてコロナ禍があり、教育空間は大学も含めて大きく変化した。オンラインで講義をするとなれば、教材も電子テクストを送信して学生たちはタブレットにタッチペンなどを使って書き込むことになった。
これまで私の試験は「ノートと教科書は持ち込み可」という条件を課していたが、ついに先日「メモはすべてデータ化しているのですが、タブレットは持ち込み可でしょうか」という問い合わせが来た。私は悩み、タブレットは可としたが、それならパソコンはどうなのかという質問も出てくる。結局は暫定的な措置としていずれも持ち込み可としたが、ネットへの接続だけは切ってもらった。しかし実際のところ、接続の有無をチェックすることはできない。
この話は「試験とは何なのか」という問題にいきつく。さらに言えば、私も今は手で文字をまとめて書くのは年賀状くらいしかないわけで、そのような生活を送りながら学生には、「試験のときだけ鉛筆で答案をつくれ」というのが果たして正しい高等教育なのかというとはなはだ疑問である。今後ありえるのは電子機器類の持ち込みがすべて自由になる状況だ。パソコンを使って自分の答案をつくりあげる能力をチェックする方向にいかざるを得ない。
そもそも大学の学問では答えを出すことより、問いを立てることのほうがはるかに重要だ。だからそのような課題設定能力をどのような形の試験で検証できるかがポイントになってくる。
すでに少数に選り分けられているエリート教育であれば時間をかけた検証もできるが、マスエデュケーションにおいては評価にコストがかかりすぎるため、こうした検証は難しい。
入試は公平性を要求されるものだから、公平に本当の能力を調べる試験をやろうとすると、教員はほとんど入試だけにかかりきりになってしまう。企業とちがって、大学は学生の能力が多少低くても、教育して能力を伸ばせばよいのだから、あまり困ることはない。だから、大学入試への取組はほどほどになる。
一方で、恣意的な要素もある入社試験は学校ほど公平性が要求されない。こちらは本当に能力を備えた人材の獲得が切実だから人事部を置き、十分なコストを割いて実施される。
空間を共にすることの重要性
教育の効果は20年、場合によっては30年ぐらい経たないと測ることはできない。それを追跡調査することは容易にできない。また、30歳で教育達成に関する追跡調査を始めた若手研究者がいるとしよう。しかし、30年後に効果の実証データが揃うころには、その研究者も大学を退職する直前になっているだろう。こんな実証的調査は誰もやりたいとは思わないはずだ。
まして、子供に悪影響があるかもしれない教育方法の実験などできないし、教育論もメディア論と一緒で、結局は歴史的アプローチで考えていく以外の手段がないのなのかもしれない。
結局、教育で大きな影響力を持つのは、教師と学生が同じ場所で時間を過ごすことなのかもしれない。教室で本を読んでディスカッションをするとか、キャンパスの生活時間を共有することの意味は長い目でみると予想外に大きい。
かつてわが師・野田宣雄先生が言っていたことを思い出す。80年代、まだインターネットが出る前に「大学に行かなくても知識や情報が得られる時代は早晩やってくる」と先生は雑誌に書いている(「大学文化のゆくえ」『「歴史の黄昏」の彼方へ』所収)。以前なら大学は図書館が中心で、そこに行かなければわからない知識がたくさんあったが、やがてそのような資料はすべてネット上でアクセスできるようになるだろう。そうすると大学の役割は比叡山や永平寺とかのように修行する施設と同じような形でしか成立しないのかもしれない。そもそもヨーロッパにおける大学の成り立ちは教会に付属した施設として始まったわけだから、ある意味ではこれは原点回帰だ。しかしそうすると大学で学ぶ意味も、知識や技術の習得に終始するものではなく生き方や学問生活のスタイルを体で覚えることになるのかもしれない。それを言語化すれば、世界観や人生観を共有するということになるだろう。
コロナ禍において大学の講義は良質な教育メディアだったか?
コロナ禍で私もオンライン講義を続けてきた。確かに情報を伝達することにおいて、これは便利だし、学生は何度でも繰り返し見ることもできる。メリットはとても多いが、では果たして大学で学ぶことの意義がどこまで達成できたのかというと疑問は残る。
MOOCs(公開オンライン講座)のようなeラーニングも一時期のブームのときほどは聞かなくなっている。そこで知識は得られても、学問のスタイル・オブ・ライフは身につかないからかもしれない。
さらにいえば、まじめに映像を見るという行為はとても疲れる。「オンラインの授業は通常の教室の講義よりも疲労度が高いから、授業時間は短縮してください」と要請されるわけだが、私はほとんど守れなかった。その意味で言えばオーディエンス不在の講義だったのかもしれない。今のところ、オンラインの大学講義は良質な教育メディアにはなっていないようだ。
生身の人間を対象とするため、最も実験をしてはならない現場が教育である。しかしながら、制度を変えるだけで大きく変えられると考えられているのも教育である。だから、教育は最も政治的な改革のおもちゃにされやすい。むしろ、教育の本質は変わらないことが必要である。しかし、変わらないでいるために、自ら変えることも必要なのだろう。
本文中に登場した書籍一覧
『メディア論の名著30』 著 佐藤卓己(ちくま新書 2020年)
『テレビ的教養』 著 佐藤卓己(岩波現代文庫 2019年)
『「歴史の黄昏」の彼方へ』 著 野田宣雄(千倉書房 2021年)