人を殺す技術の発展は「進歩」と言えるのか
人が進歩を続けているのかという問いに対しては、異なる角度から見てみると別の答えが現れる。
市民社会になってから社会全体が進歩という概念・共通価値を共有するようになったが、新たな問題も浮上した。目下の問題の一つが、人が長生きをするようになったことだ。医療と栄養とインフラとの相乗効果で日本人の平均寿命は伸びた。人生五〇年などという時代に比べれば、人生一〇〇年時代は誠に結構な時代なのかもしれないが、例えば七〇歳で定年を迎えるとすると、一〇〇歳までのあと三〇年を何をして暮せばいいのか。ベッドの上で人工栄養や中心静脈栄養を摂取したり、胃ろうから栄養を流し込まれたりして何年も生きることもある。昔ならがんになれば、五年の生存がせいぜいでごく稀にしか治らなかった。医療界はそれが進歩だと言い続けてきたが、本当にそれが人間の幸福なのか、望みなのかというと、今は必ずしもそうではないという人が特に先進国において増えてきている。
「では、死なせてあげましょう」という団体もあちこちにでてきた。それが法律的に罪にならない国がたくさんできてきているのだ。以前、NHKスペシャルで小島ミナさんという日本人女性が安楽死のためにスイスまで行き、姉妹に着取られて自ら命を絶ったケ ースが紹介されていた。これは宮下洋一さんというルポライターによって『安楽死を遂げた日本人』という本の中でも紹介されている。日本ではまだ安楽死ができないために、小島さんは相当のお金を使って飛行機でスイスへ飛んだ。飛行機で行けるぐらいの体力と生活力がまだあったわけだ。けれどはるか先になったときに起こってくる全く他人に頼りきりになる生活を想像すると「とても自分は生きていることに耐えられない」と考え、自ら死ぬことを選択された。
私は日本でもどこかでそのようなシステムに対して、何らかの緩和措置を取らなければならなくなる日が恐らくは来るだろうと考えている。しかしそのときにも、人はそれも進歩だと言ってしまえるのだろうか。
戦争の技術にしても進歩したと言うことは充分できるだろう。核兵器ができたのも進歩、ドローンでテロリストの首領だけを殺せるようになったことも進歩だ。そんなことを昔は絶対にできなかったわけだから。テロリズムを抑制しようという立場からすれば、他の人を巻き添えにしないで殺すことができれば、その方がいいという考え方は当然あるだろう。しかし顔も見ないで人を殺すことが、人類の進歩なのか。我々はそれを進歩と言えるのか。
だから進歩という概念をどのような価値の軸から考えるか、その前提を考えなくては進歩を語ることは難しい。
ポストモダンの中で生まれた「ニューエイジサイエンス」の試み
さらにいえば、人類が皆同じ進歩の道を辿っているとも限らない。
六〇年代の終わりから七〇年代初めにかけてのポストモダンにおいては、「ニューエイジサイエ ンス」と呼ばれるものが興った。日本では「ニューサイエンス」と紹介されることが多かったが、時代に負けて今ではもう科学の世界ではまともに扱われなくなっている。
一例を挙げよう。まだチェコとスロバキアが一緒だった時代のビロード革命の後の民主化運動のなかで(ソ連圏から独立することをなぜ民主化と呼ぶのかはよくわからないが)、ヴァーツラフ・ハヴェルという人物がいた。ハヴェルはソ連圏時代には繰り返し投獄されていたが、独立後はヨーロッパの知識層を代表する一人であるとともに、同国の初代大統領になった人である。彼がポストモダンの中心的な科学理論の一つとしたものに、ラヴロックという人物が展開していたガイア仮説というのがあった。ガイアというのは、地球を象徴する古代ギリシャの女神の名前である。そこでは衛星である月もひっくるめた「地球圏」を一つの生き物のように考え、そのシステム全体があたかも生き物であるかのように捉えようとした。今宇宙を語るなかで真面目にガイア仮説を取り上げる人はいないが、地球圏があたかも生き物のようであるという視点そのものは、環境問題を考えるときの一つの切り口として取り込まれていることもある。ハヴェルは、「ガイア仮説こそこれからの地球上の人類を考えていくときの大切な導き手になる」という主張をしたことがある。
ポストモダン最盛期には、近代的な科学とは別の科学があると主張する人もいた。その主張を通すために西欧の一部の人々は「ルックイースト」を主張した。東洋思想から科学を探そうじゃないかと。それに関連し、フリッチョフ・カプラは量子力学とタオイズム(道教)の類似性を指摘した『タオ自然学』を書いてこれは爆発的なヒットとなった。
今カプラをまともに考えようとする人は多分いないはずだ。しかしアメリカの有名な詩人ロバート・フロストによる、アメリカ人なら誰でも知っているような有名な詩「The Road Not Taken」つまり「自分はみんなが通った道を取らなかった」を踏まえると、そのような考えを肯定的に捉えることができる。「みんなが進もうとしている道をあえて選ばないで生きていこう」ということだ。これはおそらく日本人よりアメリカ人の方が受け入れやすかっただろう。
例えば、あえて他人と違う道を進むというアメリカの思想の一つは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローが実践したソロイズム(Thoreauism)だろう。ソローはアメリカで西部まで鉄道が敷かれることに象徴される文明化の時代に、その価値観に背を向けて東北部にある池のほとりに小屋を建てて一人で住んだ。そこから全く文明の進歩から身を引き剥がした生活を何年か送るが、最終的に彼はまたもとの文明の社会に戻っていく。そこでの経験を綴った『ウォールデン 森の生活』は、今でもアメリカで は好んで読まれる。ウォールデンというのは、ソローが住んだ小屋の近くの池の名前である。現代の日本人でも普通のサラリーマン生活をやめて、人口の少ない田舎町の山の中に引っ越す人がいるが、アメリカではそれが一つの運動として社会的に広がった。日本人のなかにももしかしたら一部では運動として取り組んでいる人もいるかもしれないが、未だ体制にはなっていない。アメリカではそのような主張をもった人たちが自分たちの存在感を強く打ち出し、それに共感する人も大勢いる。
カウンターカルチャーはただの敗北に終わったわけではない
特殊な例ではあるが、「アーミッシュ」と呼ばれるある種の信仰者たちは、自動車さえ使わずに自分たちの村の伝統を守っている。そのような生活の多様性をどこまで許容するかを考えるとき、カウンターカルチャーのようなものは未だ息づいているのかもしれない。そういう意味ではカウンターカルチャーは完全に敗北したわけではないだろう。現に、盛んに行われるLGBTへの差別反対運動はそこから生まれてきている。アメリカでも、過去には東海岸ではなかなか同性愛者であることをカミングアウトできなくても、西海岸に行けばヒッピー仲間にはカミングアウトがそれほど難しくない状況が確かにあった。
だから「みんなが選んでいるから正しい」と考えるのは誤りであるといえる。民主主義は多数決で決まったことが正しいとされる制度である、かのように錯覚される向きがあるが、世界の歴史が、その考えが根本的に誤っていることを示している。科学の歴史もみんなが「こうだ!」と思い込んだときに、「待てよ」と言って別の道をたどった人が見事な成果を上げた実例はいくらでもある。Brand New-ismとはそのようなところから生まれてきている。
みんなが地球は平たいと言っていたときに、「地球は丸い」という人がいたこともそうだ。古代中国でも古代インドでも地球は平たいことが常識だったが、古代ギリシャだけが「地球は丸い」いう主張が説得的だった。
みんながある道を信じているときに、そうでない道があることを言い立ててみる人たちがいる。その中にはもちろん間違いも多く含まれるし、何も評価されず消えていくこともある。現在の位置というのは、「どちらかと言えば正しい」と掬い上げられたものによってできているのだ。
選ばなかった道が発展することもある
ダーウィンが「種の起源」を書いたときに、種の進化を大きな一本の木に譬えた。幹から少しずつ枝わかれして進化していく様子がよくわかる。それを見てみると、枝がわかれたときに右をたどった生き物はみんな死んでしまっても、左へ行った生き物は環境に合ってたから生き延びたということがわかる。地球は右へ行った生き物の死体が累々と地表を埋めているという。
だから我々が生き残っているのは、その途中で絶滅した種が多数あるおかげなのかもしれない。みんなはこの道を辿ったけれど、そうじゃない方を選んでみたら、少しは見込みがあるという状況が繰り返されて今の生物たちがいる。トーマス・クーンが使ったパラダイムという概念は、枝わかれするときに大多数とは異なる道を行ったことの、彼流の表現だったのかもしれない。道の方向性の違いは「パラダイムの転換」ととってもいいだろう。進化という概念はよく進歩と同一視されるが、決して同じではない。
ヨーロッパ語で「進化」と言うときは、evolutionという言葉を用いる。progressとは言わない。evolutionはラテン語のevolvereという動詞からきており、evolvereとは巻物のような書物を広げるという意味だ。早くから紙を発明した中国を除けば、昔の書物はみんな羊皮紙や木簡をつかった巻物で、それらはくるくると転がして広げた。volveが転がす、それに外などを指すeがつくわけだからevolveは、本来、進化というよりは展開というイメージなのだろう。右へ行くものもいれば、左へ寄っていくものもいる。あっちにもこっちにも開かれているのが進化だ。往々誤解をされるが、そこには本来進歩という意味は含まれていない。
やや話がそれるが、軟体動物に開けていった生き物のタコは非常に頭がいいそうだ。生物学者の中には「人間より頭がいいんじゃないか」と言う人さえいる。例えばたった一回の経験を、きちんと記憶して行動する、というような実験結果がある。タコの入った水槽の底に、金属の小板を置き、それに弱い電流が流れるようにしておく。タコがその金属の上に乗った瞬間に電流を流すとすると、即座に逃げたタコは二度とその鉄板の上には乗らない。軟体動物はホモサピエンスとは異なる方向へ、見事な進化をした例の一つだろう。
ランダムに変化するウィルスの賢い戦略
COVID-19にしても次々に変異株が現れてきていることを考えると、ウィルスの中に「そろそろ形状を変えた方がいい」といった仕組みがRNAの中に入っていると考えられる。ウィルスには明確な目的意識があるわけではなく、ある程度の時間を置いたらランダムに何かを変えているだけなのだが、そのうちに前の形状よりも効率的に増殖する株が現れる。一方で、形状を変えたことで死に絶えてしまうパターンもある。どのような形を選べば正解かは、そのときどきの環境に身をおいてみないとわからないことだが、ウィルスはそれをランダムに打ち出すことで新しい可能性を見出している。実はこれは非常に賢い。
ここ数か月、日本では、Covid19の感染者数は、他の地域に比べて格段に少ない常態で推移している。明確な理由は専門家でもつかめていないようだが、日本でも変異が起こって、しかもその変異が、たまたま日本人の免疫システムの働きに合うような形であった、というような推測もできないわけではない。
歴史とは、そうしたランダムなメカニズムで動く側面が極めて大きい。そうだとすれば、人間が今の状態を外挿して、将来計画のなかで「選択と集中」を行うことは、大きな悲劇にもつながる。あたりを引けば幸運だが、間違った選択をしてそこに集中してしまったらそれは悲惨だ、おそらく昭和一六年の日本の政治に携わった人たちは、誤 った選択に集中してしまった。それは本当に大変な結果をもたらしたが、人類はそもそもそのような間違いを重ねてきたのだろう。日本の科学行政では、流行りの「選択と集中」が、今悲しい結果を生みつつあるのは直近の問題でもある。心すべきか。