佐藤 卓己

佐藤 卓己

2018年ごろ撮影されたラスベガスのストリップに架かる歩道橋。宵の口は人通りが絶えないが、深夜にはまばらになっていく。

国民社会主義(ナチズム)は、
共感と合意の運動である

民主主義の価値が改めて語られる機会が増えている。しかし人々が「民主的である」と感じる瞬間は、実際には民主主義の対義語で語られるような政治的シーンであることもある。「民主的である」と感じさせる感覚は時の為政者や現代のメディアに巧みに利用されているのだ。人々が「民主的である」と感じるのはどのようなときか、それはどのような感情で成り立っているのか、メディア論を専門とする歴史学者・佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on December, 6, 2021, 9:00 am JST

はじめに「大衆」があった

1994年に私がジョージ・L・モッセの『大衆の国民化』という本を翻訳したとき、一番衝撃的だったのはタイトルの誤読かもしれない。なんと版元でも「大衆の国民化」ではなく「国民の大衆化」としばらく呼ばれており、企画段階では「国民が大衆化する」話だと受け止められていたようだ。先んじて存在していた「国民」が、消費社会化によって「大衆」になると考えられていたわけだ。まったく逆である。モッセが問題にしていたのは、バラバラな大衆をどうしたら国民というネーションステートの主体にまとめあげることができたのか、そのプロセスであった。モッセはさまざまなメディアやイベントがいかに国民化に向けて駆使されたかを考察し、その極致がナチズム運動であると主張した。つまり大衆とは放っておけばバラバラな存在で、それをまとめて国民化していくための手法を論じていた。だから大衆の原像を同質的な集合と見るのか、アトム化された個人と見るのかによって話は大きく変わってくる。

この本でモッセは、ナチズムの成功をプロパガンダという言葉で語ることを拒否している。プロパガンダという枠組みで考えると、大衆はヒトラーに操作された受け手になり、判断力のない存在として位置付けられる。つまりナチスを支持して投票したドイツ人もプロパガンダによって騙された被害者となり、その責任の追及はできない。亡命ユダヤ人であるモッセはそうしたロジックに対して異議を唱えたのだ。

ヒトラーは「叫べ!」と言った

フランス革命以後、つまり「長い19世紀」以来、バラバラな大衆を国民にいかにまとめあげていく政治が求められ、そのプロセスの中で人々は政治に参加することで覚える喜びを発見した。大衆が自己愛を確認できる、あるいは自尊感情を抱ける政治様式がナショナリズムである。そうした「国民主権」の政治がまさに大衆を国民化していった。
ナショナリズムというのは、nation(国民)のism(主義)であり、まさに大衆を国民化していく主張である。だから「国家主義」は誤訳であり「国民主義」と訳される。だとすると、やはりナチズム、国民社会主義を支持した人々は騙されたわけではない。街頭に出て「ハイル・ヒットラー」と叫んだり、政治への参加感を覚える「快」な街頭運動に自ら参加したりしたからだ。その意味では、『ファシスト的公共性』にも書いたように、ファシズムは決して反民主主義ではない。ヒトラーは「黙れ!」と大衆に言ったのではなくて「叫べ!」と言ったのだ。叫ぶことによって政治に参加する、共感するということを全面化するのがファシズムであり、そのために街頭のパレードがあり、祝祭があり、あるいはラジオの集団聴取があった。そこに人々が受動的に操作されたという物語は成立しない。

このような話は別にナチスドイツに限ったものではない。日本史の中にも似たようなストーリーはある。歪められて伝えられたミッドウェー海戦以後の大本営発表にしても、その戦果発表を多くの人が正しいと受け止めていたわけではない。ちょっと考えれば「そんなに勝っているのにどうして本土空襲がこんなにあるんだ」と思い至らないはずはない。そうした疑念を国民が抱いていたことを示す当時の記事も『流言のメディア史』で私は示している。そうした国民の主体性をめぐる問題がメディアと民主主義を考える際のポイントとなる。

自尊感情を無視して政治はできない

マスメディアの「マス」とは、そもそも塊を指す。だから集団の意味を持つし、大量という意味もある。マスプロダクトとは大量生産のことだ。つまりマスメディアは、マスソサエティを維持するマスコミュニケーションのために存在する。
マスを政治に参加させる大衆民主主義の時代においては、知識や教養のない人たちにも1票の投票権を与え、政治に参加させることが必要になる。エリートだけが、あるいは市民階級、つまりブルジョワ階級だけが投票する政治よりもより民主的だというのが現在の民主主義だ。

パキスタンでは派手にデコレーションされた乗り合いバスが走る
パキスタンでは派手にデコレーションされた乗り合いバスが走る。行き先も、走る道も、乗せる客の人数も運転手が自分で決める。

19世紀の市民社会から20世紀的な大衆社会への流れは、基本的には普通選挙権の拡大を一つのメルクマールにしている。そうした歴史的展開を考えれば、民主主義とは何かというときには、「政治に対して自分が参加していると感じているかどうか」が最重要になる。逆にいえば、人々が政治に参加しているという感覚が低くなれば、「それは民主的ではない」との声が高まる。

「参加している」ことが人々に喜びを与え、自尊感情を高めることの重要性は、今もおそらく変わらない。例えば、アメリカの現代政治でも「自分たちは政治から疎外されている」と感じた白人の労働者階級がトランプの集会場に行って声を挙げた。そこでは「自分たちも政治に参加している」と感じることができ、彼らの自尊感情が承認されている。こうした承認欲求を無視して大衆政治を行うことはできないのではないか。そんなものを無視して政治をした方が本当は高尚かつ芸術的な政治になるのかもしれないが、やはり今の社会ではそれはできない。

一般に世論(よろん)と言われるものを、私は世論(せろん)popular sentimentsと輿論(よろん)public opinionに分けて語る。実際に現代政治を動かしているのはpublic opinionというより圧倒的にpopular sentimentだ。最近のメディア研究者はそれを「情動社会」と呼ぶ。議会にブルジョワ階級しかおらず、投票権も教養と財産のある市民しか持たなかった時代には輿論public opinionによる政治というのは理念型としてあり得たが、現在では中国のような一党独裁の政治体制を除けば、世論popular sentimentsを無視した輿論政治は普通の国家では理想化できない。

実際の参加よりも重要な「参加感」

日本は参加型社会かどうか。それは、「参加が実際に行われているか」を問うか「参加感を多くの人が持っているか」を問うかで答えが違ってくる。政治的には「参加」より「参加感」の方がはるかに重要である。そもそも政治に「参加する」のも「参加させる」のも現実的にはかなり難しい。実際何らかの形で政治に参加しようと思えば、それを議論するための知識を仕入れ、都合をつけて集まるなどの努力が必要だ。しかし普通の人にとってはそんなことをするよりも、お酒を飲んで友達としゃべっているほうがよほど快適だからだ。だからそういう人でも参加ができるよう、参加のハードルを極力下げることも必要となる。ラジオで流れてくるヒトラーの演説に「そうだ、そうだ」と共感するのもその一種だが、それはファシズムだけの政治手法ではない。同時期にルーズベルトが行ったニューディールの炉辺談話とどこが違うのか。大衆に参加感覚を与えるという機能は変わらない。

今の日本では参加感覚を持てないために「政府がお友達だけで政治をやっている」と感じている人が多いらしい。政治的な参加感覚を十分に与えることに与党も野党も成功しているとは思えない。だからワイドショーで扱える「モリカケ問題」のようなネタだけが大きな争点となる。内閣支持率は国民感情指数だが、参加感覚率と置き換えても大体通用する。つまり、「今のこの政治に自分は関わりたいと思いますか」という問いに対する答えだ。「支持する」という回答は最も低いレベルの参加感覚であり、その参加感覚が低くなれば内閣支持率も政党支持率も当然低くなる。

新潟県上越市にある小さな村・中ノ俣
新潟県上越市にある小さな村・中ノ俣。限界集落だが、祭りの時期には全国から住民の家族が集まる。大人も子どもも祭りの楽しみ方を知っている。

参加感覚の重要性はスポーツ観戦で考えるとわかりやすい。どこかのチームを応援することはまさに参加感覚であり、それがなければ楽しみは半減する。一般的に政治に参加することはリスクが伴うが、スポーツ観戦で得られる参加感覚はノーリスクで快のリターンがあるため、大衆には支持を得やすい。ただ見ているだけで高い参加感覚を得られるスポーツ観戦は、まさに大衆ジャーナリズムとパラレルの関係にあるのだ。

プロ・スポーツはそうした観客民主主義的なビジネスの上に成り立っている。それまでスポーツは基本的に貴族の遊びで、労働に代わるレジャーだった(有閑階級はまさにleisured classといわれる)。市民(ブルジョア)社会の末期、つまり19世紀末にプロ選手と労働者階級を排除してオリンピックがスタートしたのも決して偶然ではない。

政治学とは異なるメディア論の視点

つまり大衆の参加感覚が肯定される度合いが民主主義の指標である。だがそれは政治学の民主主義、その価値や規範の議論とは無関係だろう。
私が大学でメディア文化論の講義をするときには、まず「メディア論とジャーナリズム論は全く異なる」と話す。ジャーナリズム論は内容の真偽を問題とする。だから誤報が悪い、流言も悪いは当たり前である。しかし、メディア論は形式の効果や影響力の大小を論じる学問だ。内容が間違っていても影響力の大きいニュースならメディア論の重要な対象になる。むしろ、どのようにすれば影響力が大きくなるのかを考える場合が多い。そこで内容の真偽は第一義的に重要なものではない。例えばフェイクニュースはジャーナリズム論では「悪」としかならず、それ以上の掘り下げはできない。しかしメディア論ではまず影響力の大小を考えるわけだから、フェイクかどうかは第二義的である。むろん、それが悪影響を及ぼすものであるならばその影響をいかに最小限に抑えるのかを考えるのもメディア論的な思考だけれども。

参加感覚のためなら、よろこんで他者の富を生産する

2018年に『現代メディア史』を新版に書き改めたとき、終章「情報の未来史」に認知資本主義の話を書き加えた。GAFAのような企業は広告収入によって利益を得ているが、その財は誰が生み出しているのかというと私たちがSNSに書き込む情報や、どのような動画を見ているかという嗜好のデータだ。私たちは「娯楽で見ている」、あるいは「暇つぶしで書き込んでいる」と思っていても、実はその娯楽、暇つぶしの「認知労働」が富を生み出しているのだ。だから労働を従来の肉体労働や賃労働などとは違うレベルで定義することが必要になってくる。これまでは消費と労働が別物だと考えられてきたが、これからはむしろ消費こそが労働になる時代なのではないか。消費こそが情報という商品を生み出している。もしくは、認知が財貨を生み出していると言っていいかもしれない。
メディアはある意味、認知の生産装置のようなところがある。SNSはそれを大量生産している。普通の人がSNSに書き込む認知労働によって富は日々生み出されているわけで、それが富の源泉なのだ。
ではなぜ人々が喜んで認知労働に興じるかというと、これが万人に参加感覚を与えてくれる民主的なシステムだからだ。参加を通じて自尊感情を高める装置がSNSだと言えるかもしれない。自分のことを見てほしい、日記を読んでほしいという人たちが大量にいる。「いいね」のメカニズムは参加により自己肯定感を増大させるべく設計されている。
これを「幸せな愚民社会」と呼ぶ人もいるだろうが、大衆が参加感覚、それによる自己肯定感を得たいという気持ちは今に始まったことではないわけで、それが得やすい社会はまず民主的な社会といえるのかもしれない。

本文中に登場した書籍一覧
『大衆の国民化――ナチスに至る政治シンボルと大衆文化』 著 ジョージ・L・モッセ 訳 佐藤卓己 佐藤八寿子(ちくま文芸文庫 2021年)
『ファシスト的公共性』 著 佐藤卓己(岩波書店 2018年)
『流言のメディア史』 著 佐藤卓己(岩波新書 2019年)
『現代メディア史 新版』 著 佐藤卓己(岩波書店 2018年)