大場紀章

大場紀章

中国・新疆ウイグル自治区にある風力発電施設。ここはいたるところから石油や天然ガスが出るエネルギー資源豊富な土地である。

(写真:佐藤秀明

脱炭素が禍いの種になるとき

脱炭素の思想 人類は地球に責任を負えるのか」「日本人が理解しがたい『気候正義』」の 2回にわたり、エネルギーアナリストの大場紀章氏は日本人があまり気づいていない脱炭素の政策の本質について語ってきた。ここではさらにもう少し考えを進めて、脱炭素がもたらす利益と不利益についても考えを述べてもらう。
(この記事は2022年の始まりに実施した公開インタビューの一部を編集してお届けしている)

Updated by Noriaki Oba on March, 8, 2022, 8:50 am JST

温暖化がプラスに働く地域がある

不快感を覚える人もいるだろうが、実は、温暖化がもたらすのは害悪だけでない。地域によってはプラスの影響を及ぼすこともある。

単純に寒いところは暖かくなればありがたいし、経済面ではより顕著な影響が現れる。地球の人口密度は、年間の平均気温が15℃くらいの地域と20~25℃くらいの地域に集中している。平均気温が15℃くらいの温度域にある人口密度の高い地域には、ヨーロッパやアメリカなど一人当たりのGDPが高い国が多い。

経済活動と気温の分布の関連性を調べると、だいたい平均気温が13℃くらいで一人当たりのGDPは最も高くなる。つまりそれよりも低い温度で暮らす地域の人々はもう少し温度が上がることで、単純に言えば農業の生産量を増やすことができるのだ。平均気温が13℃未満の地域には、北欧、ロシア、カナダ、モンゴル、そしていくつかのヨーロッパ諸国が含まれる。そういった地域は暖かくなることで食料生産量が増えて、プラスの影響の方が大きくなることが考えられる。だから、温暖化を止めることは自分たちの利益が棄損することだと考えることもできなくはない。

セントラルパーク5番街
アメリカのマンハッタン5番街。連なる高層ビルの足元にセントラル・パークが広がる。1980年代撮影。

しかしすでに暑い地域で暮らす人々にとっては、温暖化はマイナスである。人口が集中している暑い地域とは、東南アジアやアフリカといった、赤道付近の地域である。このあたりは一般的には発展途上国が多く、一人当たりのGDPが少ない、いわゆる貧困国が多く含まれる。結果、地球全体でみると、人口が少ない地域でプラスで、多い地域でマイナスなので、計算上はトータルでマイナスになる。そして、暑い地域がこれまでより住みづらくなることに対して人類が責任を負わなくてはならない、という考え方がまさに「気候正義」である。

このような視点で見てみると、「脱炭素」は「地球を守る」という発想は必ずしも親しくないように感じる。

「一人ひとりの心がけ」では済まされないのが脱炭素

現在、温暖化問題に取り組もうとしている市民の多くは「大量生産大量消費はやめ、過剰な経済活動を慎んで、ほどほどに豊かな生活ができるようにしよう」と考えているのではないだろうか。

しかし、脱炭素が目指す未来はそのような「心がけ」で収まるものではない。脱炭素とは「抑える」ことではなく「やめる」ことだ。当然、やめるためにかなり厳しいプロセスを強いる。脱炭素はすでに国際的なコンセンサスになっているため、経済や政治に絡む取り決めはどんどん決められていっている。一人ひとりの努力によってエネルギー使用の制御をすればいい、という次元をはるかに超えているのだ。

やや過激な言い方をすれば、慎ましい生活を行うだけのお金すら稼げなくなるような経済戦争が始まりつつあるのだ。そして、その根拠が「正義」であり「責任」である。脱炭素を心がけで解消する問題として理解している人は少なくないが、実は、もう脱炭素はそのような次元で語るトピックスではなくなっている。

脱炭素は計画することで「稼ぐ」ことができる

未だ、日本の企業は「脱炭素に対応する」という言葉を使うことが多いが、はっきり言ってそれだけではパワーは失われる。重要なのは、脱炭素の計画をすることである。律儀に一つずつ対応をして結果をだしても、株価はめったに上がらない。脱炭素に関心のある投資家の期待に働きかけるためには、ビジョンを示す必要がある。

脱炭素は今や金を稼ぐ手段となりつつある。そして、金を稼ぐというのはすなわち権力闘争である。金額は、その数だけ人や物事を動かす力を持っていることを意味する。この権力闘争に負ければ、日本にできることは単純に減ってしまう。

前回、私は「気候正義がいかに日本人になじみにくいか」という話を展開したが、上記の理由から企業はまず脱炭素の計画をすべきだと考えている。脱炭素はピンとこないからといって放置していいものではない。これだけ聞くと、なんの意味もないように思われるかも知れないが、私が考える日本が脱炭素を推進すべきである理由はまた別のところにあり、それについては別の機会でお話する予定である。

一般の人はここに直接参加する機会は少ないだろうが、グローバルな商売に関わる人には必要になるだろう。そして政府はそれをサポートすべきだ。

合目的であることだけが解ではない

脱炭素とは、否定できないレトリックの上に乗っかっている闘争だ。そのため、合目的なことが正解だとは限らない。
例えば、EUでは原子力はグリーン、天然ガスも部分的にグリーンという判断が出たことがあった。しかし、実際は構成国ごとに実は意見は異なり、ドイツやオーストリアは「原子力はグリーンではない」と言っている。そもそも、グリーンとは植物に由来するからグリーンと呼んでいたわけだが、最近ではバイオ系の燃料であっても必ずしも環境によくないということで除外されつつある。現在、グリーン電力と呼ばれるものの主体は太陽光と風力である。一体どこがグリーンなのか。

アポロ11号
発射前日のアポロ11号。現地には多くの取材カメラマンや一般人が集い、打ち上がる瞬間を見守った。

このように、国際社会では一気通貫した論理を通すのではなく、自分にとって都合のいいようにゲームを作り変えることが勝者への道となることがままある。
では、日本の代表が国際交渉の場で自分よりもはるかに立派な体格を持つ人々を説得してくることができるのかというと、正直難しいだろう。しかし、利益が共通する国や利害が共通しない国と手を結んで協議にかけられた中で個々に賛同できる提案を一つずつ拾っていくことで、日本にとって必要なルールを少しずつでも形成していくことはできる。
脱炭素は、無視したり、取り組むことを先延ばしにしたりするほど損をするようにルールができあがっている。取り組まないという選択肢がない以上、有利な点をみつけて進めていくしかないのである。

さらに、一度ルールを決めてしまうと、それをつくった側が“策に溺れる”ことがある。国際的なルールを形成するうえで、すべての項目を自分に有利に設計することは困難だからだ。だから実はヨーロッパの国々も、自分でつくったルールに苦しんでいるところがある。特に、合意するために無理やり共通部分をつくった部分は、破棄するまでは自分で自分の首を絞めることになりやすい。一方で、ルールを自分で決められなかった、すなわち一方的に押し付けられた側は「自分で決めたルールは守れ!」と主張できるカードがあるので、これを武器に戦うことも可能ではあるだろう。

脱炭素は今の時代にしか成立しない概念

つまり脱炭素は「自然に関する責任」「人権問題」「気候正義」というものを掲げた、非常に苛烈な権力闘争なのである。だからこそ複数の商売や立場が存在する。

「気候正義」や「自然に関する責任」あるいは「自然に対する責任」が生じる基盤となった近代の考え方は、個人や社会や自然といった明確な概念を用いて、それぞれの項目をきれいに切り分けて論じることが多い。しかし私は、世界の本質とは実際には「関係性」しかないのではないかと考えている。

脱炭素を行う「究極の責任」を追求していくと、生まれたことが悪いことになり、そうであれば生んだ親が悪い、祖父祖母が悪い、先祖が悪いと論理的には無限に後退していってしまう。そんなことに意味はあるだろうか。つまり「責任」や「正義」というのは、厳密には定義できないものなのだ。なんとなくそこにあるように感じられる、社会的に立ち現れているように説明されているが、それは時代によって大きく変化していく。だからこそ現代的な意味での「気候正義」や「自然に関する責任」とは今の時代にしか成立しない概念なのだ。50年前にそんなことを言っても、誰も意味がわからないし、もしかしたら10年後には誰もまったく理解できないものになっているかもしれない。

脱炭素を突き詰めすぎると戦争が起きる

脱炭素は権力闘争であるからこそ、突き詰めすぎると戦争を引き起こす可能性だってある。実際に気候変動安全保障についての不安を抱えている人たちもいる。これは気候変動によって困ったことになった人々が異常気象を起こした先進国に対して怒りをもって戦争を仕掛けるというイメージを持たれることが多いが、私が心配するのはむしろ脱炭素政策が契機となって喧嘩になることである。

温暖化自体は80年かけて1.5℃上がるかどうかという時間軸だが、脱炭素は10年から30年単位の話なので、互いに無茶な政策を押し付けあい、それがこじれることも考えられる。温暖化を止める前に戦争が起きてしまう、というストーリーもないわけではないのだ。実際に脱炭素による戦争問題というのは、ヨーロッパやアメリカではタブー視されている。

すでに脱炭素は、ピュアな気持ちで温暖化を不安視している学者や一般市民を除けば、あらゆる団体が利用しにかかっている。
やや過去になりつつあるが、旧東欧系の過激な活動グループは、結束のために脱炭素を用いていた。現在はロシアのウクライナ侵攻で情勢が変わりつつあるが、平和な時期が続いていたころはEU統合の象徴として環境問題が議論されていたこともある。しかし脱炭素まで踏み込んでしまうと、原発や天然ガスをめぐって東側と西側でまったく立場が変わってしまうためうまくいかなくなりつつある。

現在最も勢いがあるのは、脱炭素によって一儲けしようとしている企業、特に投資ファンドや欧米の金融機関である。また、国でいえばロシアやカナダに力を持ってほしくないという国は脱炭素に躍起になるだろう。日本人にはなかなか理解しがたい話ではあるが、温暖化したときにカナダ、ロシアが強くなってしまうことに対する懸念というのは、近隣国にとっては無視し難い問題なのだ。脱炭素が誰にとってどのような利益になるかは、よく注視しておく必要がある。

ここまで環境に対する責任や生まれ育った地域ごとの脱炭素の考え方などを紹介してきたが、私は環境倫理学の専門家ではないため、本稿がアカデミックな論考ではないことはご了承願いたい。しかし私が様々な関係者と議論をしていくなかで、このようなことを感じたことは事実である。世論はそれぞれが個人的に感じているものの集合体として形成されるはずだ。

第2回公開インタビュー開催のお知らせ

2022年3月29日(火)20時より、オンラインにて大場氏への公開インタビューを開催します。参加費は無料。ただしメルマガ会員様のみのご招待です。
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参考文献
 “Global non-linear effect of temperature on economic production”, Marshall Burke, Solomon M. Hsiang & Edward Miguel, Nature volume 527, 235–239(2015) 
The environmental consequences of climate-driven agricultural frontiers”, Lee Hannah et al. PLOS ONE 15(7) 
China: The Impact of Climate Change to 2030 Geopolitical Implications, NIC, 2009/6
HOW RUSSIA WINS THE CLIMATE CRISIS, NewYorkTimes, 2020/12/16